こんにちは、ただのおばちゃんです。
現在の発達障害診断基準
発達障害というのは曖昧な概念です
チェックリスト全部あてはまるならば
診断がつく、とも限りませんし
あてはまらないから
診断がおりない
というわけでもないです
一応、自分占い程度のチェックリストと
「本人かまわりが
ひどく 困っていれば」
というのが基準です。
例えば
大人のADHDチェックリストには
- 物事を行なうにあたって、難所は乗り越えたのに、詰めが甘くて仕上げるのが困難だったことが、どのくらいの頻度でありますか。
- 約束を忘れることがどれくらいの頻度でありますか
- 先延ばしにすることがどれくらいの頻度でありますか
- 計画性を要する作業を行なう際に、作業を順序だてるのが困難だったことが、どのくらいの頻度でありますか。
- じっくりと考える必要のある課題に取り掛かるのを避けたり、遅らせたりすることが、どのくらいの頻度でありますか。
- 長時間座っていなければならない時に、手足をそわそわと動かしたり、もぞもぞしたりすることが、どのくらいの頻度でありますか。
- まるで何かに駆り立てられるかのように過度に活動的になったり、何かせずにいられなくなることが、どのくらいの頻度でありますか。
とありますが
「どのくらいの頻度で」というところが
全くない/めったにない/時々
頻繁/非常に頻繁
こんな選択肢なのですよ
「困難、詰め甘い、過度に活動的、そわそわ、もぞもぞ」
これらの頻度は極めて主観的なものですよね
せめて1日に何回とか週に何回といった
少しでも客観的な指標を加えるべきだと思うのですが
これでは完全に
困り感自己申告制
診断基準がこれでは、
「発達障害は甘え」
といわれても無理ないな、とおばちゃんは思わざるをえません
もちろんガチの方はガチですが、同じ子を医師が診て、これほど意見が分かれる障害は、精神科以外ではそうそうないのでは…
「個性を持て余し困ってる&診断名欲しい」
医師複数が360度どこから見ても本物で、
どんなにかしんどいだろうなー
と思っても
これがなければ
診断つかないのです
多くの医師は
本人や家族が
診断名を望んでいる
あるいは
必要としている
(あるいは、経営側であれば収入になる)
と[思う]とき
はじめて診断名を付けます
なぜ自己申告制なのか
現在 発達障害は
精神科、心療内科、心理学の領域で
扱われているため
主観(本人と周囲の困り感)を
ベースとした診断が主流です
客観的なアプローチ
例えば脳神経科的に
伝達物質の分泌量や
受容体の数、脳の器質的特徴等
脳そのものの働きを診断する方法が
メジャーになったら
流れが変わるだろうとは思います
しかし、脳CTが脳腫瘍の原因となりうるとして
問題視されている現状では
ちょっとやそっと
困り感があるからといって
脳CTを
撮るわけにもいきません
脳CTを撮っても、形質的な異常が見つからないことも多いです
脳内でなにがどのように分泌され
また受容されているかを
非侵襲的な方法で判断する手段も
ないです
このため
検査機器性能が飛躍的に上がるとかでもないと
脳神経科方面からの発達障害研究は
なかなか進まないだろうなと
想像しています。
(2023.1.1所長とおばちゃんの古い友人が筑波で研究してるので楽しみにしています)
他の障害との違い
身体障害や知的障害など
ほかの障がいや疾病は
病院に行き、
医師が客観的に判断したら
家族や本人が必要としなくても
診断名がもたらされます
(客観的基準とされるラインをクリアしなければ
保険が使えません)
発達障害という診断は
本人や家族が診断名を
必要としているかどうか
つまり主観が
重要な診断基準のひとつです
ここが
他の疾患や障害と大きく違います
「ぶっちゃけ、こんな
ほぼほぼ自己申告で決まる
困り感なんてものに
受給者証、障害年金、生活保護その他公的支援を適用していいのか」
と
専門家の間でも
論争が起こるくらい、
医師と患者さんの
主観や忖度で変わる
非科学的な部分をはらんでいるものです
同じ人と同じ医師でも、
ちょっとプレゼン内容を変えたり身なりを変えたりすれば結果は変わります
困り感は
主観的にしかはかれないので
仕方ないのですが
ちょっと
西洋医学らしからぬところがあります
公費負担か自己負担かの線引きしなくては
医療資源が枯渇し破綻します
精神科は昔からサイエンスでない医学と見られており、現在、関連学会は
WISCなどで
客観評価の指標を作ろう
と頑張っています
が、現状は上述したように、血液検査や尿検査など既存の方法では脳の調子はつかめず、主観が混ざりやすく
完全に客観的に数値化
できるものではありません。
なお、
診断にはWISCなどの検査は
実は必須ではありません)
診断がついた人たちであっても
数パーセントの「ガチ勢」を除くと
ほとんどは、障害というよりも
強い体臭、極端な体型
優しすぎる、卑屈すぎる、気にしすぎる、気にしなさすぎる、
などなど、体質や性格に近い
個性の領域、です
昔の発達障害
「発達障害を礼賛するな」
という意見の方は
こっち側の大人にも
あっち側(定型)の大人にも
いますので
あまり輝かしい話を
すると嫌われるのですが
時代を語るには
発達障害界のエリートの話をせざるを得ませんので
お許しください
ADHD的特性、アスペルガー的な特性を
持った者が
人類の発展に貢献してきたと言われます
ものづくり系アスペルガー症候群が矢じりを作り、
多動系衝動性系ADHDがマンモスを狩り、
測量系アスペルガーが、分配を請け負い
妬んだり憎んだりひがんだりするほど
知的能力の高くない者は
社会秩序のベースを静かに支え
植物マニア系アスペルガーが
農耕技術を蓄積し、
言語優位で歴史好き系アスペルガーが口伝し
衝動性不注意系ADHDと
食にこだわるアスペルガーが
未知の動植物の食べ方を探り当て…
多動系ADHDが開拓をし
構造に魅せられたアスペルガーが大発明をし
聴覚過敏のアスペルガーが音楽を奏で
触覚過敏の美術系アスペルガーが絵を描き
内臓大好きアスペルガーが医療を進歩させ
多動なADHDが各地で広めたり
積極奇異のADHDが人と人とをつなぎ
資金を集めて
新しい国づくりをすすめたり
といった具合にです。
「普通の人は一切
エポックメイキングをしなかった」
と言いたいのではないですよー
誰もしないことに取り組むのは
いかに異端視され
苦しかったことだろうと
思うだけです
昭和の発達障害
では、1-4世代前
昭和、大正の時代には
発達障害は
いなかったのでしょうか?
答えは、わかりませんが
たぶん
傾向ありの赤ちゃんが生まれる割合は
さほど変わらず
しかし
環境によって早期に
自然に能力の凸が削られて、
小さくまとまっていったとか、
特性バリバリでも出来る仕事が
今より多かったのかなと
想像しています
昭和な時代、昭和な地域では
傾向ありの子は
ADHD傾向を生かして
ガキ大将から星一徹
あるいは寅さん、
雷おやじに
なることができましたし
ASDやADHDの傾向が役立つ
経理、職人、個人商店の手伝い、
ちょっとした修理屋さん、
銅くず拾い、
御用聞き、漁師、
都市部でも
親の仕事姿が
身近にある子どもたちの割合が高く
大人になったとたん
ハイ自分で考えて仕事してね!、などという
無茶ぶり状況になる子が
少なかったのではないかなと思います
また
体罰されたことのある人も
体罰する人 パワハラする人も多数派でした
「親に殴られて当然」でしたから
殴られたところで
自分は親に愛されなかった…
生きる価値がないんだ…
などという考えに
支配されることもありませんでした
腹に据えかねて子供を殴ってしまっても、
納屋に閉じ込めても、
親が罪悪感にさいなまれることもありませんでした
体罰は愛の鞭として
正当化され、
体罰を受けて育った者でも
多くは
より小さき者や次世代に
指導の名目で
愛の鞭をくらわせることで
カタルシスと役割まで
同時に得ることができました
負の連鎖として現代では毛嫌いされていることが
かえって子供が親になるという循環を
スムーズにしてくれていたかもしれません
(一部、
暴力の連鎖をストライキした
心優しいASDが
自ら死を選ぶことはありました)
現在
現代でも、自然に近い生活環境においては
発散の場や活躍の場があるので
問題視されにくいです
また、
能力による階層の細分化がなされていないところでは
比較的二次障害が起こりにくいと言われています
私立小学校、私立中学校など
能力により細分化された
均質に近い集団に所属しますと
自分よりも下位と認識できる存在が
極端に少なくなります
「比べられるストレス」
にさらされた子たちは、下位にならないための争いを始め、
熾烈な生存競争にさらされます
小さい頃に経験し乗り越えていれば多少耐性が付きますし
劣等感を味方にする方法もあります
しかし、支えがないときに初めて劣等感にうちのめされると
復帰に時間がかかりすぎます
凸の肥大
栄養状態、生育環境がよいこと、
死の恐怖から遠いことにより、
脳の活動における凸の肥大が
起きていると考えています
また、現代の家庭、園、学校など集団において
体罰が殲滅されたことにより
物理的に凸の肥大の助長が
されているのかなと思うことがあります
いわゆる「劣悪な環境」とされる
DVのある家庭の子どもの脳には
委縮が見られるとされています
飽くまでも
仮定ですが
かえってその萎縮が
社会性(時には過剰適応)を
子どもにもたらしているという
仮定をしたら乱暴でしょうか
凸を伸ばし過ぎる風潮
バランス度外視で凸を伸ばす教育や
逆に
個性個性と言いながら
集団の持つ同調圧力に頼った教育などにより
凸にふりまわされる子が
顕在化しているのではないかなと
思います
頭部強打の機会損失
少子、核家族、手狭な家
あるいは保育園などでは
細かく目を配られます乱暴な兄弟や同級生も
早期に投薬を受けるなどして鎮静され
頭部強打の機会も恐らく減っています
頭部強打の経験は
凸の肥大を防いだり
感覚過敏の緩和につながったり
社会性をつかさどる脳の領域を
確保したりしていた可能性 否定できません
雑多な集団にいる時間が長い
母子分離年齢の低年齢化・親都合化は
コミュニケーション能力の高い子はより高く
低い子はより低く、という二極化を招いています
保育士は定型が多いので
笑顔上手甘え上手な子どもはたくさん手をかけてもらえて
より愛され上手となります
コミュニケーションに難のある子は
最低限の目しか
かけてもらえない
あるいは
叱られてばかり
という数年間を過ごしやすいです
(2021年3月追記、発達障害支援として療育という概念が浸透し、プロ意識を持って受容的な関わりをパーフェクトに行う支援者保育士さんが増えてきました。
ところがこのパーフェクトな受容的な関わりはパーフェクトな教育ではありません。短期的に落ち着くだけです。小学校以降の不適応を起きにくくしているとは到底言えない、微妙な結果、多いです。特に記憶力強いASDみのある子に対して、その場しのぎの支援は有害です
短期的にはストレスのない環境がいい環境いい支援ですが、中長期的には負荷によって調整力などを身につけられる環境こそいい支援いい環境と心すべきでしょう)
再生し循環し続けるものの不在
社会、経済の停滞感が
発達障害顕在化の理由だとする専門家もいます
また
言語化できない不安やいらだちを
受け止めてくれる大自然の不在も
大人、子供に影響を及ぼしています
登下校中に、石ころをけり、
はっぱをちぎりながら
歩き
ときどきセミを捕まえてばらし、
カエルを逃がしてやり、
アリを踏みつぶすことは
発達に偏りのある子どもにとって
レジリエンスを育てるのに
とっても大切な経験です
今の発達障害の8割は昔基準で普通の人
今であればADHDやASD ADD PDDなどと
診断のつくような
凹の目立つ子や
変わった子は
昔からいました
ほとんどは、
恐らく死の恐怖による
脳全体の萎縮効果で角が取れ、
凸はなくなっても知的ボーダーとして
それなりに
成長し
それなりの数の
受け皿が地元社会にあったのです
(男はつらいよ の寅さんや、その腰巾着・源公、
じゃりン子チエのテツのように)
私は
高機能発達障害だとして
困り感を抱えている現代の子たちは
一昔前なら
ボコボコに殴られたり
あちこちで
頭をぶつけて
死の恐怖から学ぶとともに
脳が委縮し、
高すぎる知能が緩和され、
その分できた脳の余力が
生きる力につながっていたのではないかと
想像しています
頭部打撲の衝撃や
DV、弾圧などにより
個性の凸は失われても
その分生きやすさを得たのでは
ということです
殴る子育てこそ至上、など
肯定するつもりはありませんが
社会秩序を維持するための必要悪として
うまく機能していたんだろうな
と思うことがあります
社会が暴力を必要悪だと認めていた時代には
こんなにもたくさんの人が
肥大した凸に振り回され
病むという状況にならなかったよね…
ふと
乱暴な仮定が脳裏をかすめます
かつて必要悪とされていた体罰ですが
相対的に腕力の弱い
女性の権利が向上するに従って
愛の鞭をはじめ
物理的な力の行使は
軒並みNGとみなされ
すっかり
なりをひそめました
他害行為が
人権侵害とされるに伴い
他害する側とされる側の入れ替わりが
起こらなくなりました
やったりやられたりの
お互い様の関係の中で
学べていた
ソーシャルスキルや力加減を
学ぶ機会が激減しました
学ぶ力の弱い子には
改善のため
医療的介入が
なされるようになりました
こうして
薬で問題行動をおさえるのが
今や当然の定番となりました
他害をしてしまうのであれば
集団からじきに排除されてしまうので
投薬やむなし かもしれません
しかし
他害をしない子の
園で優等生になるための服薬ですとか
受験を成功させるための服薬
まわりの大人が楽するための服薬
このような目的であれば
もう一度考えてみてもよいかもしれません
健康保険や公的支援のはしごは
そのうち外されてしまうと考える向きや
また、
公的支援や福祉、医療の限界を知っているなど
診断を受けるメリットは少なく
不可逆的なデメリットを重く取る
そんなご家庭が多いです。
あえて医療機関にかからず、
発達障害の診断を受けず、
公的支援や薬に頼らず、
親自らが我が子のプロになり、
子ども自身も自身のプロになれるように
自助努力をしています
医療や公的支援を
完全に視野の外に置くのではなく、
時に刺し違える覚悟をもって
常に細やかな
要不要の選択をしているかんじです
薬の効果は一時的なもので
ずっと続けるには
本人と経済力や社会制度の安定が不可欠です
偉い人たちのお考え次第で
販売禁止や薬価の高騰
保険適応外となる可能性もゼロではありません
薬の力を借りて
一時的に脳の負荷を下げ
生きるための工夫を身に付ける
訓練期間限定での投薬や
自己を客観視し、
居場所選び、
スモールステップづくりしていく
そのようなスキルを身に付ける
トレーニングをスムーズにするための
期間限定の投薬であれば、
メリットがデメリットを
上回ることもある
かもしれません
生きるための工夫の仕方、
特にコミュニケーションは、
勉強以上に「適齢期」が短く
また、コツコツとした積み上げが必要な科目です
なるべく早く、
基礎から、否、基礎も応用も一気に身に付けた方が良いです
早期習得できれば
集団から学べるものがそれだけ増えます
親以外から上手に学べるようになれば
ほとんど免許皆伝です
(いわゆる勉強の適齢期も長いわけではないですが
勉強は基本的に個人プレイなので、
同学齢間人間関係ほどには
習得適齢期が限定されません)
漫然と服薬を始めてしまうと、
切り上げ時がわからなくなります
そして大きな問題が起こります
「できる自分」しか見えなくなってしまい、
「できない自分」を
完全否定してしまいがちになるのです
できる自分もできない自分も
かけがえのない自分の構成要素です
できない自分を受け入れられなくなることは
自己否定にほかなりません
自己否定的な人間は
他者に対しても否定的な人格となります
こうなると孤独に吸い込まれます
そのとき無条件で支えてくれる存在がなければ
心が死にます
服薬する場合でも
できない自分に蓋をせず
できる自分を過信せず
期間や予算を決めて
着実に、効果的に
自己理解と凹ならし、凹とのつきあい方を
身に付けるようにしていただくのがよいのでは
ないでしょうか