大事な話なので、繰り返します、一発で覚えてくれた方にはくどくてごめんなさい。
ASDあるあるトラウマ「どこ見たらいいの問題」
目の使い方に特徴のある発達障害の方は多いです。
ASDは、目の動きが固い印象があります。特に、眼鏡をかけているとき。視覚優位の子の中には、目を動かすと酔うから動かしたくないという子もいます。
見つめても気持ち悪いと言われにくいせいなのか、目を合わせるのを怖がりまくる女子の数は男子の場合ほどは多くありません。ただ、目を合わせるのはできても、目を合わせたりそらしたりの自然な目配りに慣れている子はわずかで、真っ黒い瞳でギュッと見つめてしまって相手を困惑させてしまうこともあるようです。
目をやんわり合わせるという儀式
相手に違和感を感じさせずに目をやんわり合わせられるかどうか。群れる文化の中では、仲間に入れても大丈夫かどうかを見分ける判断材料になっているようです。
ASDの目の動きの固さ、本能強い子にナメられがちなのです。弱みに付け込まれて狙われる、みたいなこともあります*1。
特に、叱られているとき相手の目を見るのは難しいです。感情センサーがよっぽど雑じゃないと無理だろうと思います(おやっ、大多数の人類を敵に回した気がする…)。
ASDみがある子は、目を見ろ!と命令されて、自己を鼓舞して言われた通り相手の目を見たとしても、睨むな!と怒られてしまったり、なんだ本当はそんなに怒ってないなと読み取ってナメてしまって怒られたり、相手の目がマジで怖くて謝罪や改善声明を出すどころではなかったり…
「人の話を聞くときは、相手の目を見て」
にいい思い出なんか一つとありやしません。…あ、あるある大合唱!どうもありがとうございます!
ロクな記憶が伴ってないんじゃないかと思う。
よっぽど心を削ってうまくやってきた子とか、あざとさ特化型ASD子以外は。
目を見ろ!
なんて叱られ方だと、意味が分からないのよ。なんで目を見る必要があるのかと聞きたくなるわよ。
まして
「なぜやったんだ!言え! 目をそらすな!!!」
と言われたら、いや私もなんでこんなに詰められてるのか理由を知りたいわ、ってなるわよ。
しかし、問えば火に油を注ぎ、逆鱗に触れ、雷が落ちる。女子は、アホ男子のやらかしを見て育つから、そういう地雷はあまり踏み抜かない。だからこそ自分の文化と異文化とをごちゃ混ぜにして身につけて、自分のルーツや軸足の置所がわからず混乱してしまう子もいるみたい。
なんとか目を見て話を聞くことの合理性を見出そうとして、なぜだ、なぜだ、解せぬ、という正解のない思考に振り回され、脳は酸欠、脳の酸欠を防ぐためのあくび機能まで発動。
目から感情を読み取るセンサーの強い子も、目を見ることがしんどいです。
すごい辛酸なめてる子でないと
…ここであくびしたら殺される、あくびは脳の酸欠、脳の疲労の表れだから、話を真に受けないようにして、目つきをコントロールしよう。そのためには半分意識を飛ばして脳のキャパを守ろう…
…というライフハックにはなかなかたどり着けないんだよね。*2
目を見ないと異端者扱い
「相手の目を見なさい」
と言った大人は、
「こいつ苦手」
迅速判定されるわよ、記憶に基づいてね。
その子によりますが、支援するなら、きれいごととか社会通念を押し付けてきたことを謝るといいよ。
そして、目を見て話せ!さもなくば異端者とする、という文化のことや、そんなものがある理由の仮説を考えさせると吉かもね。
脳がデカい皆さんは元々ね、センサー&メモリが普通以下な大多数の人とは仕組みが違うんだよ。どっちがいい悪いではなくてね。
話者の目を見たり見なかったりをして、体はじっとしつつもタイミングよく頷いたり謝ったりしていないと、話の内容に意識を向けられないらしい、または、話者の話は聞かずに、聞いたふり反省したフリに全力投球しているのがほとんどの人。だからこの意味不明なお作法が生まれたという説………こういうことをネタとして知らせておきたい。チャラっとね。
お作法とか部族の装いというのは、意味や汎用性がなければないほど、ポリシーが異なる者の侵入を防ぐのに有効な合言葉というか、合ジェスチャーになるんだよね。
叱責されてるときに
・話者やその目を見る
・体を動かさない
こういう子の中には、知能かなんらかの非認知能力が異常に高く、コミュニティを脅かす反乱分子足り得る有益な存在がいます(頭悪く見えても、実は内にぎっしり秘めている)。
ASDがなぜ反乱分子たり得るかって?是々非々だからだよ。
道義上正しいと思う方に引き寄せられる子が多いのよ。それってつまり、寝返りかねない存在なのよ(あ、義理に重きをおいていると異常に義理堅くなるけどね)。
よって、是々非々の子を排除するDNAを持つ者がたくさんいるんです。でも大丈夫、心におばちゃんを住まわせておけばね。
話している人を見てはいけないとき
目を見て話せ、目を見て話を聞けと言われる場面は限られています。ところが、ASDみがあると、原理原則化して、別の場面にも適用してしまうことがあります。
整列時、着席時、テスト中、歩行中などなどでは、話者を見て話を聞こうとするとしばしば叱られが発生します。
どうやら、目を見て話を聞くことよりも、列を乱さないことが優先されやすい場面もあるようです。
目を見ようとしないほーがいいってこともあるらしいけど、揺らぐものすべて理解しようったって無理なので、わかんないなりに気をつけつつ割り切っとくとよさげらしい、ってことも気付かせたり、言い添えたりしておきたいところです。
目という情報発信源から出る信号は、ゆらぎが大きいです。ASDはリラックスしていないときにはゆらぎに惹かれにくい傾向があると言います(あ、信じた?おばちゃんが今思い付きで書いてるだけだよ?いちいち真に受けんなよ!ネタだよネタ!)。
ASDの中には、感情や雰囲気などの受信機が生まれたときからぶっ壊れてるとされる人もいますが、当所の観測では、センサーや実行機能が出来上がるまでに、通常より複雑な製造工程や調整期間が必要で、ひたすら納期が遅いだけということもあるようです(おそらく総量は多くなく、うちにはたまたまそういう人が集まりやすいんだと思います)。
しかし。
かといって悠長に待ち、ってのも無理な話。
その間にもまわりの子どもたちは成長を見せ、一人前になっていく中で、高IQのASDのお子さんの成長を阻害する最大因子【気後れ】をどうするべきかって、マジで丁寧に個別に扱わねばならない。気後れ問題は後ほどまた書きます。
受信できる情報量が多すぎて受け取りきれないせいか、目そのそのものへの抵抗感があるせいなのかなどは個人差があります。
いずれにしても、こいつの言うことはおもろいぞ、役に立つぞ、聞かないのはもったいないぞ、と思ってもらえたら、キラキラお目々で見つめてくれる瞬間が生まれることがあるようです。
目を見て話を聞くということについての指導はそれからなんだよな…と思います。
気後れ問題
多くの方が、発達障害児の発達が一部遅れるときの気後れについてあまり話題にしない。自己肯定感がない、と表現する向きはあるね。
自己肯定感が低い(ここでは自信がないの意味。おばちゃんの言葉のイメージだと、呼吸が苦しい、疲れやすい、便秘や下痢、アレルギー、感覚過敏、などで地味に感覚を酷使していることに気付かず、治療やケアをできていない状態のほうが、自己肯定感低いって状態に近いと思ってるんだけど)のはお勉強のせいだと考えたり、お勉強さえどうにかなれば、どうにかなるだろうと考えて躍起になる。
確かに短期的にはそれでいい。しかし、お勉強の内容自体は人生の幸福度を支えるには脆弱すぎることも教えてあげないといけない。なんなら、良くて30%ぐらい。特に実家にお金があると、勉強してたとえ高収入を得ても虚しがるんだよ。
晴れた日はいいお天気だなと思い、雨の日はダムに新鮮な水が湛えられることを喜び、パートナーはじめ、まわりの人とお互いに無理なく支えられ合うことに感謝するとか、健康な生活習慣とか、つまらないことやりたくないことでも取り組んでナンダカンダやっつけたらスッキリ、みたいな、手元にあるささやかな幸せを集めて愛でるくせは、親子べったり時代に植え付けると、何かの拍子に思い出してその子の人生に役立つだろうなと思う。
ASDの学力は危ういところがあって、いい先生からしか学びたがらないとか、好みの教材以外は無理とかあり、転落もザラにある。なんとなく真ん中を保つ機能みたいなものもついていないし、いつまでも高知能かというとちと違うんだよ。学力は、社会性を身につけたときにトレードオフになることもあるしね。
お勉強できる子の発達気後れ対策として、お勉強は有効に見える。確かに最初のハードルを超えるには、学力面の気後れは緩和してあげたいのもわかるし、だから算数障害や書字障害のお子さんとか聞くとおばちゃん張り切る。
ただ、お勉強のアドバンテージってのは賞味期限が短いので、コスト割きすぎるとがっかり感半端ないよ。
知能凸のASDの子を中学受験のいい先生に出会わせると貪るように知識を蓄えまくります。小規模塾だとすぐに天狗になり、優越感依存を起こしやすいです。
私立や国公立難関中学入学後3年半以内に9割のASDが優越感終焉を迎えるであろうことは頭の片隅に置いて、むしろ優越感からの離脱や、優越感を持つならノブレス・オブリージュとセットで持たねばならぬこと、劣等感を蒸留すると謙虚さになるらしいなんて話は、ニュートン算やダイヤグラムより長い目で見て大事だと思うわ。
まとめ
ASDの子に限らず、人間は、よっぽど訓練しないと自分の立ち位置からしかものを見ないし、語れないようにできています。特に群れを作り、維持することで生き延びてきた遺伝子の乗り物たちにとっては、意思統一のし易い単一価値観に帰依するマインドが必要だったんでしょうね。
典型発達(いわゆる定型の人)は、共感力が高いとか言われますね。そんなことは断じてないです。単にお仲間が多いだけです。
相手の立場になって考えなくても、まわりと利害がぶつかりにくいようプログラムされているので、真に相手の立場に立ってものを考えることはむしろ超絶不得意よ。
思考や記憶を強制終了して、その場しのぎで浅くつながりコミュニティを作り身を守るのがうまいだけ。
自分の日本語を普通の日本語だと勘違いしているフシがあるのはどちらも同じ。
ただし、相手に伝わらないときの受け取り方は分かれます。お仲間が多い人は
「相手の理解力が低いんだ」
と思い込み、お仲間の少ない人は
「私が悪いのかなぁ、なんで伝わらないのかなぁ」
とモヤモヤしますが、伝える工夫のチャンスをも得るのです。
様々な経緯から、申し訳ないけど、言語に繊細なASDほど言葉を的確に使える人はいないんだよとお伝えするほかないなと思いますし。先生含めてもいないと思ったほうがいいし、ほとんどの人はASDほど真剣に、相手の気持ちを考えたこともないのです。
定型いいなー羨ましいなぁと思われたかもしれません。確かにね。おばちゃんもね、若い頃しんどかったし、周りにも盛大に迷惑かけた。でもその経験のおかげで、たくさんの人を笑顔にできたなぁと思います。我が子達も、私の黒歴史情報から様々なことを学び取っています。
ASD女子は、年を取ると、思考凸、記憶凸、感覚(感受性、感性含む)凸などなどが自然な衰えを見せて、ほどよく収まりが付き、相手の気持ちを考えたり割り切ったりした経験から、いろいろ吹っ切れた達観者になれます。加齢はネガティブなものとされがちですが、ASDだと加齢にもなかなか楽しみがあります。これは稀有なギフトです。
なるべく長く長く趣味を楽しむ目や体力を保持できるようにしたいものですよね。苦手であっても目や体を動かしたり、姿勢を正したりしておきましょう。
高IQのASD女子は支援が難しい難しいと言われます。それはおそらく、一元的な正しさを刷り込まれやすいからだろうと思っています。
一元的な正しさに絡め取られて凝り固まっても、ASDならロジックでほどいてあげることが可能っぽいです。
学力よりも、記憶の解毒とアップデート、受け取り方、目の動かし方、表情の作り方、荒ぶる思考をユーモア・幸せサーチ・割り切り・バランス調節・感覚センサー調節・言葉選びに活用する方法、縁の切り方・つなぎ方・維持の仕方、大切な人を大切にする方法、身だしなみ、このあたりを異文化として学ぶと、あっさり幸せになれます。
そんな簡単に言うなよ、と思われたでしょうか。うん。簡単ではないよね。それは認める。
まず異文化になぜ行かねばならぬのかってとこからだから、お嬢様には、何を今更、と言われるかもしれない。
でも難関中学受験に注ぐ熱の1割もあれば、かなりハイレベルまで行くし、その後ずーっとラクだよ、定型は中学以降あまり成長しないから(おい!)、定型文化のお作法は一度覚えたら、マイナーアレンジでまあまあ使えるっぽいわよ。
んー、こんなかんじかなぁ…なんか言い忘れてる気がする…あー恋愛のことには少しだけ触れたけど、親離れ子離れ、子育て、介護や老後のこと、書いてないや。このへんは経済力や立地、間取り含めて個別性が高いのであしからず。
お嬢様さえよければ直接おばちゃんトークさせていただくのもありだよ。
長くなりました。ごめん、老眼で読み直ししてないので構成も校正も無茶苦茶…
BBAの繰り言読んでくださりありがとうございます。皆様のご家庭にも育てにくいお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
親子もまわりもwin‐win-winになる、持続可能な健全育成、心より応援しています。
極上にこじらせたASD脳だと
「は?応援って何(怒)」って思うかも。カモン!おばちゃんが!受け止める!
質問箱22-1〜8、高IQ、不登校、ASD女子 って一般には支援三重苦とされてるけど、当事者ちゃんも多少は頷けるとこあったんじゃないかなと思います。
このシリーズ記事、深遠で複雑で繊細な心を持て余している子や親御さんに届いてほしいな。そして、
「私はここが違う」
ってダメ出ししてほしいなと思います。
読んでくださりありがとうございました!
お悩みの方、おばちゃんトーク(ご相談)承っております。
noudeka.com
*1:目がキョロキョロしてる人はADHD寄りで誘いに乗りやすく、目の動きが固い人は軽率さはないけどはまればどっぷりってとこない?いやなんもわからんけど
*2:我が家では、 「相手が怒っているとき、態度悪いとみなされると殺されかける」 という実感を植え付けて(やり方は想像におまかせするわ)、目を見る練習と目つきの練習を、機嫌のいいときにたくさんさせました。 目つきよくできたら、犬の躾のようにすかさずほめて、小さなおやつを口にぶち込んだわ。これ小さい頃からやるとやらないでは大違いなんじゃないかな、とひそかに思っています。 辛酸を嘗めながらゆる支援を受けて、叱られ上手反省上手にもなりました。心のゆとりを確保できるようになり、こいつはやべーぞ…関わらないようにしよう、って思わせる目つきも自由自在