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もしかして発達グレー研究所~凸凹ハートの幸せを考えるブログ by QOLT

なじめない、生きにくい。そんな子達の青い鳥ドコー?志村!後ろ後ろ!

アドラー心理学4社会のダブスタに立ち向かうアドラー

多数派が作る暗黙の了解

定型(典型発達)が主導権を握る集団では、「感情は、他者によってもたらされるものである」という暗黙の了解があります。
「相手が嫌だと思ったらいじめ」「相手の嫌がることをするな」「相手が許してくれて、よかったね」このような雑な指導が家庭でも当たり前のように行われています。

でも、それだから歪むんじゃないの、って話です。

言い方重視、、受け取り方軽視という偏り

「言い方って、大事だね」と日頃から教えたことは、ありますよね。
しかし、受け取り方の大切については、子供が傷付いてるときに初めて必要性を感じる大人が多いのです。さらに、学校などで受け取り方の不具合について話すことはタブーとなっています。被害者の気持ちに寄り添うべきだ、と言われてしまうためです。

本来、感情には双方向的な作用、相互作用があるはずです。いかようにも、変化するんです。

たとえば、「愛してる」「素敵ですね」という言葉。

大好きな人に「あなたは素敵ですね」と言われたらとても嬉しいと思います。
では、嫌いな人に言われたら?それは、とても気持ち悪い。

同じ言葉、ですよ?
これは「発せられた言葉や感情そのもの」を覆すほどの力が、「関係性」と「受け取り方」というファクターにはあるということを示しています。

「関係性」は、調整が難しいですね、相手に「関係性を考えて言え!」と要求したところで改善してもらえるとは限りません。
それでも「精神的距離を取る」ということは自分側で調整する余地があるかもしれません。

「受け取り方」もそうです。

アドラーの言うとおり、人は、自分で「受け取り方」を調整することができるはずです。
本来的には。

ほとんどの人がトレーニング不足なんですよ。受け取り方の。
園でも学校でも、家庭でも、多くの集団は、感情崇拝。感情絶対主義で。
感情に絶大な価値を置いてるので、受け取り方は軽視というか、蔑視されてます。

自他の感情の挙動に、無批判で従うことが、なんだかんだ、スタンダードとされてるんです。
もちろん感情は人それぞれですので、便宜上、「共感用の、仮想の感情」が、不文律としてざっくり設定されてます。
「バカにされたら、憤るべき」「嫌なことをされたら怒るべき。 でないと、感情に蓋をすることになる」みたいな論調で受け取りようによっては学びやネタになることも、とにかく嫌なことは怒るべきことと刷り込むだけ刷り込んで、怒りに振り回されて苦しみをひきずる子のあとのことは知らない、というのが心の教育現場のスタンダードです。


「受け取り方」のトレーニングは、感情を信奉する者からしますと、感情という「価値観の拠り所」を「冒涜」することに他ならないのですよ。
ですので、「感情」という御神体を脅かす「受け取り方」というファクターは、平時、ほとんど無視されてます。

そのくせ、メンタルの緊急時にだけ、「まぁまぁ。そもそもあなたの受け取り方もどうかと思うよ…」という調子で沸いてくる。
そりゃ、厄介者扱いにもなりますわ。
そんなわけで、感情主義者からは、「受け取り方重視なんて、ろくでもない邪教」ぐらいな扱いを受けています。


でも、閉じた脳で、冷静に考えてみますとね。

受け取り方の調整って、平時から、注目したほうがいいですよ。
すごくメンタルコスパがいいですから。

自分の感情に蓋をするのではないのです、むしろ逆。
自分の感情を守るために、他からの影響を検閲したり、処分したりっていうかんじ。

言葉や感情は、物理的暴力と違い、どんくさくても、 避けられます。必要に応じてキャッチもできる。

毎度たとえが下手ですみませんが、
いわゆる嫌なこと、ってイカやウン○を投げつけられるみたいなものなんですよね、
ウン○なら正面で受け止める謂れがないでしょう、避けよう、ってなりますね。または、きれいに洗い流して、次はウン○ぶつけられないようにするにはって学んでいく。

イカを投げつけられたら、腹を立てる、投げるなと言う、等の選択以外もあると思うのです。

華麗にキャッチして、
一夜干しにしたらすっごくいいじゃない?

受け取り方の調整ってこんなかんじ(ごめんなさい、たとえ下手なんです)。


受け取り方の調整は、難しいようですが、 他人が絡まない分、練習した分だけ着実にうまくなります。
閉じた自分の中で達成できます。

「他者から発せられた言葉や感情が私個人を不快にさせる!!だから変更せよ!!」
と他者に強要する作業よりも、実は、断然楽で、都合がいいのです。

しかも、気分を害させるような他者は一人だけではないですよね?
たくさんの人と出会いますよね。

生涯で出会う人々全てに不快な言動をさせないよう要求して回ろうとするような親御さん、いらっしゃいます。
これはすごいエネルギーを必要とします。コストも莫大になります。しかも得られるメリットは短期的です。

他者を改造することを目指した人たちは、戦い続けなければなりません。疲弊して、悲しみや苛立ちは増えます。

ホリエモンのように戦い続けるのも選択肢のひとつではあります。
自己主張をするなと言っているわけでもありません。

ただ、メンタルコスパめっちゃ悪いです。守備が甘過ぎ。
金持ちの道楽としてなら、攻撃特化で戦い続ける人生も悪くないですがね。

できる範囲で、自分の受け取り方を調整するトレーニングをしたほうが、
庶民が穏やかに暮らす方法として、現実的です。

自己主張は、しないのかって?
いやいや、しましょうよ。
でもね、
自分か、相手、または両方のメンタル緊急事態においては、しないほうがいいでしょうね。
ろくなことになりませんから。

感情の大波が来ているときは、自己主張の効能は平時よりも格段に下がっています。建設的な自己主張が認められることはほぼないと考え、嵐が去るのを待ちながら、駆け引きについて落ち着いて考えるのが無難です。

感情的になっているときは、自己主張をなるべく避け、相手の怒りに火に油を注ぐことを防ぎながら、言動を調整していく。
これが合理的戦略ではないかと思います。
シチュエーションによりますがね。

いじめられっ子絶対正義扱いの弊害

人間関係のトラブルの多くについて、
合理的解決法である「受け取り方の調整」を軽んじるのは危険です。

「精神的いじめもいじめである。いじめるほうが一方的に絶対的に悪い!!!いじめられっ子は善!!!一切の改善すべき点はない!!!」
とする社会通念は、子供の心を守ってはくれません。ポリティカルコレクトネスは自衛力を完全無視させておきながら、その結果の責任を取ってくれません。

ダブルスタンダード

集団では、
「他者を攻撃するな」「相手の気持ちを考えろ」と教育してるんですよ、教育しながら、実質的には「他者を攻撃したり、少数派の気持ちを無視したりしたほうが、簡単に利益(承認)を得られる」
示されたルールと、集団を実効支配しているルールが違うんです。

おかしいと思いませんか?これがダブルスタンダード、ダブスタです。
おかしいと思いながら、言語化できず、ひとりでモヤモヤしてると、精神的ストレスが引き金となり、問題行動が増えます。
発達凸凹っ子を混乱させる大きな要因が、この、ダブスタです。

多くのコミュニティは、助長された感情クラスタに支配されてしまっており、このようなダブルスタンダードクロージングにあふれています。

これは、論理を心の支えとするASDサイドの人々にとって、恐怖です。
世界のを揺るがすような恐怖です。
彼らが、幼児の頃から常に無意識に混乱し、見えないストレスをためてしまうのも致し方ありません。


このような世の中の仕組みに混乱している人たちにとって、アドラーの「感情は自己責任」「受け取り方を変えよう」という考え方は実にすっきり明解な答えをもたらします。


※ただし前回までにも申し上げました通り、アドラー心理学がいかに合理的で明快で、浸りたくなっても、社会の多数派である感情原理主義を無視して生きることは非合理的ですし、私は「郷に入っては郷に従え」と考えています。昔の人の知恵ですね。

「お邪魔シマース アンモクノリョウカイ教えてクダサーイよろしくお願いしマース 日本語ベンキョウチュウネ~」とまではいかなくても、
謙虚な姿勢、健全なメンタルの持ち主を見出だす「人を見る目」、上手な感謝の示し方、これらを身に付ければ双方、無駄なストレスから解放され、
温かな心の交流により相互のパフォーマンスを高められます。

続きます
noudeka.com


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