こんにちは、ただのおばちゃんです。
スクールシャドーをしていると「小学校って社会の縮図」と思うことが多くあります。
低学年ですと、先生は、簡単に独裁者になれます。
多数派と独裁者(担任)がくっついて先生マンセー、この状態が一番怖いです。独裁者マンセー病の中にいられれば安泰ですが、その病気にかかれないのがもしかして発達障害、です。
状況よりもルールを正しいとして優先し、現況優先とするシステムは正しくないと感じます。だから育てにくいんです。
先生マンセーできない子にとっては、園生活から小学校低学年はとんでもないハードモードです。学校には、悲しいことに絶対正義と絶対悪が存在しますが、もっとひどいことにそれはルールや道徳によってではなく、先生含む多数派の「思い」によって大きく揺れます。
「この子をシメれば、学級はまとまる」
こういう存在だとしてひとたび目をつけられたら、試練の年です。親もお子さんの自己肯定感最終防衛線だとして本腰を入れる必要があります。
本腰を入れると言っても、先生をシメろというわけではないです。おばちゃんが有効だと思う自己肯定感は、小さい頃、ぶちのめされたあとに、乗り越えることで身につくものであって、チヤホヤチヤホヤされる中で育つものではないからです。
さらし首的に吊し上げられること、孤立無援を経験することも自体は、愛されキャラ育成を阻害するものではありません。
担任にボロカスにされる経験を、逆に、他者には他者のロジックと正義があると知る貴重な学びとして、価値ある経験に変換することこそ、愛されキャラ育成事業の最重要チェックポイントと言えるかもしれません。
発達凸凹のある子どもが自力でその経験を学びとするのは、不可能とまでは言わないまでも極めて困難ですので、保護者や支援者の腕の見せ所です。
エグい経験を含む、インパクト強い経験からの誤学習を防ぎながら、心の健やかさや学びに変えていく。当所の推奨するゆる支援のポイントのひとつです。
よく、担任に配慮を配慮を!という親御さんいらっしゃいます。お気持ちはすごくわかるのです。支援を受ける権利があるのだという、業者や業界の営業を真に受けすぎているようにも思います。
が、人の行動を縛ることは、思うよりもずっと難しいです。
保護者一人一人にロジックがあるように、担任には担任のロジックがあり、それに基づいて言動して○十年やってきています。
保護者の思い通りに担任やほかの園児児童生徒をクレーンできると思っていると、かえって、巻き返すのが困難な苦境に陥ります。
ストレスにつぶされかけている担任の場合、物理的視野が狭く、本当に、ターゲット(問題児)しか見ていませんので、こちらのロジックを理解させようと思うと無理が出てきます。
多くの担任は教職不要の雑務に追われており、一人一人に注意するほど心に余裕がないです。
ほかの子たちは、誰かが怒られていれば自分は怒られないように気を付けようと思いますし、学校教育の理念も、多数派っ子たちの脳の仕組みに対応しているものですので仕方ありません。
一斉指示に従えない時点で、集団指導という原則から、こぼれているのです。
多くの担任は、こぼれた子、というイメージのみを見ています。目をつけられてしまった子は、わずかなミスも許されません。
朝の挨拶からダメ出し。
朝の準備が終わらず、遅い、となじられます。
授業中はもちろん叱られます。
授業が終わるあいさつのときも、ほかの人はぐらぐらしていても怒られないのにターゲットにされた子は微動だに許されず(ストレスで、余計に動く多動症、ADHD特性持ちはぼこぼこにされます)
休み時間、廊下なんてわんさか走ってるのに、目をつけられた子が「走るな!!」と叱られます。それを見て、ほかの子は歩き始めます。
ターゲットとなるような子は、知能が高いのですが処理速度やワーキングメモリが比較的弱く、否定語を受けた時に好ましい行動を選び取るのに時間がかかります。
「走るな」ではなく、「歩け」「0.1秒で完全停止できる歩行速度で」と言われれば、分かるのですが、一般的にそういう指示は出ません。瞬時に翻訳できるように、家庭で仕込んでいきます。
学校も社会も、普遍性を好むASDの子にとってはカオスです。正しさも激動しています。かといって、普遍的な正しさにこだわり続けて生きられる子は稀です。幼少期から
「世の中の人はわりと雑…っていうか忘れん坊だと思っていいらしい」
「考えがコロコロ変わる人もいるらしい」
「正論を好む種族もいるが、嫌う種族も多くいるっぽい」
ぐらいの認識を刷り込んでおくと、かなり手際よく大波を乗り越えられます。このために、優しくない集団生活や理解のない環境にも、大きな利用価値があります。
真っ当な親御さんの子ほど、学校生活で、価値観がグラグラぶちのめされます。
給食の前に手を洗わないとものすごく怒られます。が、よく見ると、担任も全然洗ってない。あるあるです。
手悪さするな!手遊びするな!話を聞け!という担任も、こちらの話はろくに聞かないで赤ペン回してます。あるある。
挙句の果てに、当たり屋のように絡んでくる子に対していい加減に止めてと言ったら
「きつい言い方をされた!」
と先生に泣いて言い付けられ、先生は
「言い方に気をつけろって何度言ったらわかるんだ!!相手の気持ちを考えろ!!相手の気持ちを考えられない奴は最低だ!!」
…先生の言い方はそれでいいの?先生は相手の気持ちを考えられているの?考えた上でその行動なの??それって、それって…それってどうなの?もやもや、ぐるぐるもやもや、ぐるぐる
思考を言語化することに慣れていない子ですと、混乱をそのまま脳にしまい込み続けます。思考の言語化が的確すぎるとこれまた軋轢を生み、いずれ口と心を閉じます。
そして、仄暗い、開けたくない記憶のフォルダがグッチャグチャに詰め込まれますので、脳の負荷は増える一方です。
記憶が、心に、悪さをし始めます。
こうなってきますと、先生マンセーしているまわりの人、全てが敵に見えてきます(もともとクラスメイトを植え込みのツツジぐらいにしか思っていない場合もあります。その場合は植え込みのツツジにまで責め立てられて居るような気持ちですから、四面楚歌と同等かそれ以上のとんでもない恐怖です)。
たとえ認知の癖が強くなくても、実際ものすごい長時間、審議の目にさらされ続けて不当な仕打ちに遭っているわけですから、当然だんだん拗れてきます。
学校でのお子さんの姿を実際にご覧になっていただくのが一番良いのです。しかし、担任も、参観日はよそ行きモード。授業も少し工夫があったり、他の子たちも親を意識した言動を取ります。日ごろとは全く違います。
そーですね、社長が視察に来る日の職場、と思ってください。
忘れ物を届けるときにこっそりチェックしてみて。
先日、低学年クラスにおける学校生活がいかに複雑かをメモしてきました。就学前のお子さんをお持ちの方でご興味ある方はどうぞご連絡下さい。
ご要望がありましたら記事にしようと思います。