複雑な発達心
頭が良すぎて、低年齢なら入る支援が毒になる段階があります。
精神年齢や知能が高すぎるタイプの発達凸凹の自尊心は、単純ではありません
(単純すぎる部分と複雑すぎる部分とを併せ持っている感じです)。
私もこの段階では、ほめるというよりウインクや小さくサムアップ(いいね!)、或いは本人が聞き耳立てれば聞こえるか聞こえないかくらいの状態でぼそっと。
それらさえも軽率には行わないようにしています。大人だと思った方がいいということです。
精神年齢や知能が読書やメディアの影響で、
(絶対的に、あるいは自己肯定感の低さに比して)高くなりすぎると、
年齢は低くても
「ほめの裏を深読みする」「ほめを疑う」という状態になりやすいです
それが続くと自己肯定感が低くなりすぎて
「せっかくほめてくれようとしているのに、受け入れられない心の狭い自分、こんな自分なんて価値なし」というような思考に陥り
ほめればほめるほど荒れるということが起こります
ほめ拒絶
いったん心が荒れて疲れてしまうと、ほめでは回復しません
お世話になってばかり、教えられてばかり、
配慮されてばかり、おだてられてばかりの状態では自己肯定感どん底のままです。
自分は周囲の役に立っている、役割を担っているという認識を、わざとらしさを感じさせずに、ささやかに、でも潜在意識に働きかけるいわゆるサブリミナル効果的に認知してもらえるようにしたいものです。
ほぐせるのは誰
しかしいったんこんがらがった思考は、自力ではなかなかほぐれません。
認知アンテナが敏感すぎて警戒中、触るな危険!
そんなお子さんたちから比較的安心して受け入れてもらえるのは、いい先生やいいお母さんよりも、本人の認識の中で本人よりも下位な存在です。
かわいい盛りの子犬や、賢い成犬よりも、おむつを脱いでしまう老犬
ニコニコ笑う弟妹よりも、長期入院中の親族
美人な完璧ママよりも、
「いつもすまないねえゴホッゴホッ」というような老母
要するに、認知アンテナビンビンな自分を嫌わないで、自分ならできる範囲のことで頼ってくれる弱者です
自分を嫌わない弱者は、「自分なんてどうせ」になった心を解きほぐす力があります
(※自分よ!弱者を見て安心してるのか?そんなの最低だ!というレベルの意識を持ってしまっている場合は事情が変わります。
※こじらせて自閉が強くなりすぎると、死病に伏せっている人のことでも我が身の一部のようにクレーンしようとします。漫画美味しんぼの芸術家、海原雄山氏が妻であり山岡士郎の母に対する言動のイメージです)
どこにいる?
地元の公立中学ですと、愛されて育った愛されキャラの知的ボーダーや、地元で有名なネグレクト家庭の子がいたりして、ある程度自分を嫌わない弱者や、「なんだかんだじぶんのほうがまし」と思いこみやすい対象を得やすい傾向があります。
核家族や入試を経た集団などにはそういった下支えをしてくれる存在がどうしても不足しがちで、「自分なんてどうせ」という認識に陥るのがものすごく早いです。
そんなとき、気がいい、面白い、でも盛大に滑る、そんなダメな近所のおばちゃんというのは結構いいみたいです。
幸い、私は「このおばちゃんはダメ犬みたい。なんか変だけど嫌ではない」という第一印象をもってもらえるので、お願いすると、いろいろなことを「助けてもらう」「教えてもらう」ことができます。お子さんにとっては、しょーもないおばちゃんだけどなんか喜んでるな、役に立ててよかったなーと思えるのかもしれません。
1日に1回、あ、今ちょっと、いいことしたな、と思えたら、それはいい人生なような気がしますよね。
靴をそろえる、食器やお風呂を洗う、片付ける、勉強するといったこちらのしてほしい役割をこなしてもらおうと躍起になるよりも
お子さんの何気ない言動にこちらが勝手に感謝するというのも検討する価値があります。(効果がない段階もあります。単純偏差値55、複雑偏差値48ぐらいが必要?)
ほめや感謝自体にはもともと価値がないのかもしれない
ずっと前のことですがほめられることや、感謝されることに、あまりにもネガティブな過剰反応を示す友人何人かにイエスノークエスチョンでご意見を掘り下げたところ
親同士が自然にほめあう姿を見る機会がとても少なかった、ほめること、感謝することは、不自然で意図的だと感じる、また、親自身も褒められたり感謝されたりするのを嫌う、との旨、教えてくださいました。
ドキッとしました。
それ以来、研究所では、
大人同士が相手のいいところにスポットライトを当てて、ほめ、感謝する姿を意識して見せるとほめや感謝に価値を感じるようになるのかもと仮説を立てています。
ほめや感謝のある環境に一生いられるとは限らないのであまりこだわるのも問題になると思いますが、他者の好意からのほめや感謝を拾いこぼす人生になりますと、愛されキャラからは遠くなって、孤高の人になっていくのかなと感じます。
個人的には、お子さんの身近に「大人同士が、相手の存在自体に感謝する姿」があるようにお願いしたい、とお伝えしたいです。
家庭の事情によりなかなか難しいことだとは思いますが、ご夫婦、ご同居の方々、ご親族の人間関係にとっても、好ましくない行動を直させる意図だけでなく
「相手のよいところにスポットライトをあてる習慣、
行動だけでなく、相手の存在自体に感謝する習慣」
もう少し、あってもといいのではないかなと思います。
(いいところだけ見ていればいいというものではなく、問題点を教材にする視線を持つことも客観視の練習になりますが、そればかりでは息が詰まりますので、脳の負担とのバランスを探ります。悪口を言うと一時的に脳の負担は軽くなるようですが、麻薬です)
相手の存在自体に感謝するというのは、
例えば
「あなたといると幸せ」いうような関わりのことです。
まあでも口うるさいババア(あらーこんなお言葉、いけませんわね)にこんなこと言われて思春期の子が嬉しく思うはずもなく…だいたい心の中では「見下せるからだろ!支配できるからだろ!」と思っているわけで、
お世話になってばかり心配かけてばかりで申し訳ないという思考に相手が陥りそうなときに、どのような言動をちらつかせていくかは、個々に合わせて慎重に選ばないと真逆に行くでしょう。
恋愛頼みはハイリスクですが
親のほめが入らない、誰の感謝も入らない、そんな自分を否定する、そういう状況に陥ってしまうと、大好きな他人(多くは異性)から愛されながら学んでくれない限り、前向きな心の成長は見込めません。
そこまでひねくれた子の心を解きほぐしてくれる他者に出会えるかは賭けですが、賭けの期待値を少しでも上げたり、失恋から立ち直るチャンスを増やしてあげたいと思うと、行きつくところは清潔感偏差値を上げる、客観視を養うということになるのではないかなと思います。