こんにちは、ただのおばちゃんです。
近年
「気難しい大人、育てにくい子は、自己肯定感が足りていない状態である」
ということが周知されるようになりました。
温厚さを引き出すために大切な関わりは、寄り添うことですよ、ともよく言われます。
それらの言葉を信じて、律儀に寄り添いまくっている方がたくさんいらっしゃいます。プロでもです。
おばちゃんはこの状況を危惧しています。
端的な表現である
「寄り添うこと」
「理解者となること」
という言葉は飽くまでも端的な表現です。どうかくれぐれもお気をつけください。
他者軸でも動けるようにならないといけない宿命
グレーゾーンなどもしかして発達障害?のお子さんは、福祉の枠の外で自立しなくてはいけません。
「寄り添いすぎる(寄り添われ過ぎる)」
ことのリスクを考えていただきたいと思います。
癇癪やパニックなどを起こさせないために効果的な関わりとして、変わった子独自の価値観世界観に支援者が寄り添い、肯定することは必須です。
しかし、支援者側の共感力が強すぎると、支援対象者の世界観に、支援者の軸足が完全に移ってしまいます。
支援対象者のからだの一部であるかのような言動を、支援者が当たり前のようにしてしまう現象、高頻度で起きています。
これは、あたかも理解ある支援のようでありながら、ものすごく危険なサポートです。
サポーティブな存在は、発達障害児にとっては、自分の体の一部のようになっていきます。一般的に
「少しずつ手を離していく」
と言われますが、発達障害児から既得権益を取り上げることは、そんな簡単なことではありません。
ホンモノの発達障害当事者であれば、他者を操作する
「クレーン現象」
は、寄り添い型支援によって、どんどん強まります。
そしてゆくゆくは
「人は、私の思い通りに動くのが当然」
と思い込んだ大人が出来上がります。
安心な環境は、スポイル環境と紙一重
家庭や支援施設や学校など、ある狭い世界観の中での居心地の良さやトラブルのなさに耽溺した支援対象者は、確かに狭いその価値観の中にいる限りは安心できます。
しかし、安心安全な環境は、その子の、社会や集団への進出と適応を、より困難にさせることもあるのです。
理解されている状態がデフォルトとなってしまうというのは、大きなリスクです。
ちょっとした不適応が鬱から来る不登校、引きこもりなどに直結します。
不登校や引きこもりがすなわち悪、だなんて思いませんが、明瞭な意図と戦略のない社会不参加状態は、長い目で見ると危ういと言わざるを得ません。
理解されない孤独感は適切に問題視されますが、本当は、理解と配慮の行き届いた良い環境にも警戒せねばなりません。
孤独感の中でも、安心感の中でも、自他同一視は強まってしまうのです。
親子はお互いの同一視が成立することも多く、親にはそれほど奇異には見えないこともあります。
だからといって甘く見て放置すると、あっという間に嫌われものになります。
「愛情を注いでいるから大丈夫」
というのは真っ赤なウソです。受け取り方次第で、愛情は、吐瀉物にすらなり得ます。
ちびっこならいざ知らず、大きな体になり暴言を吐き散らかす社会不適合者を、その子に届く形で愛し続けることのできる支援者は、親御さん含めてそんなにいません。
支援者はパピーウォーカー〜他者と過ごせる子に
発達障害児にとって、寄り添われて確固たる世界観、価値観を持つことも、理解者を得ることも大切です。
が、寄り添われ過ぎてその中にこもりきることが許されてしまうと、一般的な集団と合流することが困難になります。
曖昧な自他の境界があいまい=傍若無人、ワガママ、独善的、ですから、とにかく嫌われます。
理解者と二人きりでしっぽり生き続けられるならばそれもいいと思います。
しかし、大抵はそれでは暮らせませんね。
理解のない他者に対する違和感も強まる一方となり、不安が募ります。
不安やストレスのために自他同一性を強め、支援者と自分の境界がない、自己の一部と見なす言動を始めます。
たとえば、自分が遊びたいとなったら、相手の事情お構いなしに一緒に遊ぶこと決定!、というような言動です。
これ、客観的にみますと、支配的な言動であり、ものすごく奇異です。
大人と子どもの関係や、下級生や上級生、あるいは異性とはそこそこうまくいくのに、同性の同級生とは無理、というお子さんはいませんか?
人間関係を、振り回すか振り回されるか、従うかリードするか、とにかく主従のどちらかだと思い込んでいるお子さんによく見られる現象です。
寄り添い型の支援は、お子さんの支配欲を満たしすぎてしまい、
「人間関係とは、自分が主で他者が従、の主従関係である」
と思い込ませてしまうことがあまりにも多すぎます。
ひとたび思い込んだお子さんの認識は、どんどん偏っていきます。
クラスメイトなどを支配できないとき、どうなるでしょうか。
人間関係を主従関係、しかも自分が主だと誤解してしまったお子さんは、いずれ必ず大問題に直面します。
そして、
「自分は嫌われている」
「いい友達がいない」
などと誤解するようになります。
幼児、低学年はまだまだ改善の余地があります。
高学年〜中学生高校生の思春期に、自己同一視のメインターゲットが、恋愛対象や部下に移りますと、大変なことになります。
「通じるはずの相手に気持ちが通じないなど、思い通りにならないときに、キレる、泣く、暴れる大人」
となりかねません。
自己と他者の境目を習得した多数派の皆さんからは当然、異常者に見られてしまいます。
「変わった子の独自の世界観」
の中だけで育つと、
「普通の世界観」
の中だけで育てるのと同じか、それ以上に、生きにくくなります。
「普通」「多数派」に含まれる人達も
決してみんなが自然に「普通」なわけではありません。
実は多くの人が、同調圧力により日々無理して「普通」に寄せて、必死に生きているのです。
このために、
「普通」から外れた人のことは、
無理をしていない人、楽してる人、
ルールを無視して好き勝手に生きてる人
このように見なされます。
残念ですが、無理もないです。
発達障害児の世界観と
「普通(多数派の作る社会通念)」
は同一にはなりません。
発達障害寄りのお子さんたちは、
定型世界を訪れ
「普通」の価値観の中で
学び、仕事をして生きていくことを目指すケースがほとんどです。
寄り添うタイプの支援は、飽くまでも緊急避難的な支援であることを、支援者、対象児、周囲で共有することを強くおすすめします。
「普通ゾーン」がどこにあるのか把握した上で
「普通の片隅」に出稼ぎに行くわけです。
そのために必要な力は、独自の世界の中も利用して、付けさせる必要があります。
ワーキングホリデーかなにかで出稼ぎに行く前に、出稼ぎ先の文化を下調べするみたいなかんじです。
個々の持つ独自の世界と、「普通」の間にある、深くて暗い川に橋を渡す…
あるいは濠を埋めていく…
はたまた、自作の宇宙船で「普通の星」を訪れる…
このとき必要な力として、凸を伸ばすことが言われます。そのためには確かに寄り添って、お子さんファーストの支援が良いように思えてしまいます。
しかし、もっと大切なのに忘れがちなことがあるのです。
広角とズームの視野を使い分ける感覚と、周囲の人間関係を温める力です。
「見ている/感じている/処理している世界やコミュニティに、広角とズームや解像度を使い分けながら、関わっていく」
「他者と折り合いをつけ、他者に感謝し、自己中心的になりすぎないようにする」
幸せに生きるためにとっても大切なことなのに、近すぎる存在が行う寄り添い支援によって、高確率で損なわれていきます。