なぜ行かせたいのか
ほとんどの親は、学校に行かせたがります。
たとえ学校に行けば行くほど静かに心が壊れていく状態でも、です。
なぜでしょうか。
学校に行かせれば、教育責任を他人に押し付けることができるからでしょうか?
いえいえそんなわけはありません。
人間の教育責任なんて誰にも…本当の意味では親にも、取れません。
学校には行くものだという「同調圧力」に絡めとられているからでしょうか?
いえいえ、学校嫌いを育てているほとんどの親御さんは、学校行かないという選択肢が存在することはおわかりです。
勉強のため?
いえ、集団授業による学習効果が高いのは同調圧力が通じる子であり、そうでない子は自学や個別指導のほうが伸びやすいです。
友達がいるから?
いえ、友達本当にいるかいないかなんて、知らない保護者のほうが多いのでは?
自己申告と社交辞令にマスキングされてしまうため、現実は見えにくいものです。
友達が大事だから?
それもそうなのですが人格形成途中で出会う友達に、人間関係の練習台として使い捨てられることも多いです。
……ではなぜ、親は学校に行かせようとするのでしょう。
親御さんご自身で分析なさってみてください。
我々も微力ながらお手伝いさせていただいております。
親の「謎のこだわり」
個人で進路を切り拓く苦労よりも、今学校へいく苦労のほうがローリスクなのではないか。
学校制度という護送船団方式に便乗したほうがローリスクなのではないか。
同級生と違う進路を選んだことが我が子の自己否定に繋がるのではないか。
戻りたいのに学校に戻れないという現象を防ぎたい。
学校を休まれると仕事に差し支える。
などなど。
これって
「未来は得体が知れない。リスクは取れない。不安しかない」ってことですよね。
尊く純粋な親心が「学校に行ってほしい」と言う感情を発しています。
ところが、そこに、無意識のうちに「漠然とした危惧、曖昧な期待、謎のこだわり、子供本人ではなく社会情勢の未来への不信感」を混在させてしまっているのです。
スタンダードはさんざんやったよね?
親自身が、学校に行かせることに関する自分の複雑な思いを認知できていないとき、親はかえって学校にこだわろうとしがちです。
なぜ親は学校に行かせたがるか、私たち研究員にも、それぞれの親御さんお子さんの思いがわかるわけではありません。
しかし、親御さんが「我が子を学校に行かせなければ」と親が力むとき、もし「何に不安なのか親もわからないから、とりあえずスタンダードで」という思いがあるのだとすれば、
あるいは、「もしも~だといけないので、…させたい」という「保険的なコストを子どもに強いる考え方」があるのだとすれば、
ここのblogを読みに来てくださる親御さんのお子さんは、元より曖昧なものや不純物に敏感で、ただでさえ不安が強いですから、
「親の中にある、得体の知れない感情」を察知して、恐怖し不信感を強めてしまう……そのためにますます不安にさせてしまっている、このような展開は想像に難くありません。
今頑張っておけば!という考え方、つまり「未来の幸福可能性を上げるために今歯を食い縛る」
この考え方は、事実にこだわりたい子どもには理解できない感覚です。
このリスクヘッジコストは、幸福の感じ方と合わせて、いずれは身に付けたい投資感覚なのですが、
まさに苦しみの中にいて、今を生きるのに精一杯な子どもの時間軸には、なじみにくいものです。
一見筋の通った、しかし正体は曖昧な不安にすぎない親の言葉。
そんな親の、登校をすすめる言葉が響く子もいれば、
ありがちな「学校行きたくなければ行かなくていい。あなたに選択権がある」で癒される子もいます。
お子さんが耳を傾けてくれるきっかけになる言葉は、お子さんによりいろいろで「こういう声かけをすればよい」という正解はありません。
正解がない取り組みは、結果だけを求めたくなり、苦しみのもととなります。
でも今まで耳を傾けてくれなかったお子さんにもし届く言葉があるとしたら、
「なぜ学校に行かせたいと思うのか、親にもわからない。行きなさいなんて、自分でもなぜ言うのかわからない。」のような、親の弱さや矛盾を白状する言葉かもしれない……おばちゃんは思うのです。
当研究所では、親御さんとお子さんそれぞれを苦しめているものが何なのか、どうしたいのか、ひもといていく過程を、見つかった答え以上に大切にして、苦しさの緩和に活かしたいと考えています。