こんにちは、ただのおばちゃんです。
学校行き始めました
さて、先日ご相談メール頂きました、お子さんの学校嫌い、行き渋り
にお悩み親御さんからお礼のご連絡。軌道に乗ったそうです。まだまだわかりませんが目つきが変わり輝き出しました、ありがとうございましたとのご報告。
無料相談効果高すぎ!!
このブログ、今月ついに初収益!ありがとうございます!ですがサーバー代にもならないんです…(苦笑)。
いくら所長が太いとはいえ、これでは事業継続できないぞ…
気を取り直して行きましょう!
☆こんなご相談でした(他の方のためにもぜひブログ掲載をとおっしゃっていただきました)
「うちの子が、学校に行ったり、行かなかったりしています。
学校を怖いと言うのです。
先生は優しく、クラスは落ち着いています。
いじめられているわけでもなく、勉強が苦手なわけでもありません。
見た目も、清潔感も、運動神経も、何の問題もありません。
学校を休めば、心配して連絡をくれる友達もいます。
一体、なぜ怖がるのでしょうか」という
コメントから、メール相談が始まりました。
その後、学校って、サバンナだねwおばけやしきだねwと言いながら元気に楽しく通っていらっしゃるそうです。
当方は本来、個別性の高いアドバイスを本懐としております。不特定多数向けのブログで、適切なアセスメントが可能とは思っておりません。
参考までにというよりは、価値観カードのコレクションのひとつとして、どうぞ。
☆何かが不快なの
このケースでは、親御さんの
「学校は楽しいはずなのに、なんで?!」
という感覚が認められました。
「学校は、特段のトラブルがなければ楽しいはず。
原因を取り除けば楽しいはず。」
という大人の思い込みは、お子さんをかえって怖がらせることがあるため、そこはお子さんに対して謝りましょうとお伝えしました。
お子さんのキャラを聞き取ると、謝罪されると受け入れるタイプでしたので、
「学校は、怖いところなんだってね。知らなかった、ごめんね。、と謝罪してください」
とお伝えしました。
親御さんがそれを実践なさったところ、こわばりが和らいで目が優しくなったのだそうです。
どんなふうに怖いのか、気になりますよね。でも、その子を問いただしたり、問い詰めたりする必要性はありません。
こちらのお子さんの日頃のことを伺うと、言語感覚や感受性に繊細さがあることがわかりましたので
「自分の気持ち」
が複雑すぎるため、既存の言語でクリアに言語化することは容易ではないと判断しました。
繊細すぎると、いきなり
「あなたの気持ちを聞かせて、詳しく知りたいの」
というスタンスで接されると、言葉を出すことができなくなったり、有る事無い事言ってしまって問題の解決から遠く離れてしまうことがあります。
とってつけたように共感されることよりも、
「人によって全然違うとは思うけど、学校が怖い理由ってこういうのがあるらしいね」
みたいなスタンスで、理由の回答例を紹介されたほうが、受け入れやすい傾向があります。
その子が感じていそうなことを想定して、よその人が語った感覚として先に示す、ということです。
すると、
「わかるかも」
とか
「似てるかも」
と、自分から共感を寄せていくことが、すごくよくあります。
(その子の感じていそうなことを例示しているわけなので、共感の苦手な子でもよく共感を示してくれます。)
いくつものパターンを知るうちに、共感だけでなく、
「違う、私の場合は云々」
と、自分の言葉で表現をし始めるのはいいことですが、初手で気持ちを聞き取ろうとしますと、繊細な子や、自分に自信がないときは、優しい大人の傾聴さえも、取調室で自白を促す刑事さんのように感じているかもしれません。
ついつい大人やまわりが薄っぺらな共感を示そうとしてしまいますし、そのへんの子(ひどい言い方すんません、わたしゃいわゆる定型はつまらんと思ってるもんで…有象無象とかひどい言い方します、口悪いの苦手な方ごめんなさい)は、それでどうにかなります。
しかし、薄っぺらな共感をされることで、かえって傷を深める子がいます。このタイプには、薄っぺらな共感は禁忌なんです。
ですから、お子さん側が
「わかるかも」
と共感できるようなエピソードを紹介する手法が有効です。
心と体のこわばりを解きほぐしていくうちに、繊細さの極まりが和らいでいきます。
おばちゃんは、学校が怖い理由を、解像度様々にたくさん仕入れています。その上で、根源的にはこのへんに怖さがあるかな、と目星をつけています。
できれば小学校に入る前。園が、小学校入学への期待を肥大させまくる前後に入れ知恵します。以下の内容はその子にわかるように噛み砕きますが、
「あなたの理解力が強まったらさらに細かく話せる」
とも言い添えています。
・承認欲求モンスター同士が死闘を繰り広げる、承認奪い合いのバトルロワイアル状態である説。そのためには嘘でも裏切りでも陰口でもなんでもこなす子が増え、正直、親切、みんな仲良く説などの綺麗事が事実上破壊される文革実施中のような場所らしい。知らんけど。
・コロコロ変わる暗黙の了解と感情により地雷の位置が変わり続ける、地雷原状態である説。知らんけど。
・無政府状態、独裁政権、多数決至上主義等、共産主義と民主主義の悪いところ取りの支配体制である説。知らんけど。
みたいなね。なるべく早くに知らせておきたいところ。
不快の原因はたくさんありすぎて特定困難であっても「傾向と対策」は可能なのです。
入園入学後の集団生活で絶望的な恐怖を感じていらっしゃるならば、それならできそう、サバイバルゲーム行ってみよう、という気持ちに切り替えられるようにコーチングをしてまいります。
認知のスタート地点の調整をしましょう。マインドセットと言っても良いでしょう。
学校嫌いであたりまえ!
学校は地獄めぐりです。お化け屋敷です。
心理的な負荷がかかるから、その後の人生がマシに見えるようにできています。リアルな話をして、認知の再スタートを促します。
学校を、怖い、嫌、キライ、学校行きたくない、そういう子はいます。
怖がりだとか、間違っているとか、おかしいとか、ワガママだとかジャッジしたり、大人がしたり顔でお子さんの言葉に闇雲に薄っぺらい共感を示すのはナンセンスです。
「学校は、苦しみの中からいかに楽しみを見つけるかの訓練所、かも。」
「学校は楽しくないから、楽しいところです!!!!!って強調して、
ルールがあやしいから、ルールを守りましょう!!!!って言ってる、のか、かも、かも。」
「おもしろきこともなき世をおもしろく 住みなすものは心なりけり。って、高杉晋作先生が仰ってた」
いきなりこういうことを押し付けられたら、学校を怖がるお子さんが 面食らうに決まってますが、支援の完了までにこの感覚を伝えて、お子さんから
「あー、そうかも〜」
という共感を引き出します。
親御さんは、発達障害寄りのお子さんをとりまく集団の修羅場ぶりを知る必要があります。
ご自身にご経験がある方、帰国子女や留学経験お持ちの方は、すぐにストンと来るようです。
今回のケースでは、お母様ご自身は、学校の不快感を上向きのエネルギーに変換していらした方でした。
お父様は、意識を飛ばすことで学校での苦痛から心を守っていた方です。
そこで、発達障害寄りのお子さんをとりまく「学校=修羅場のエピソード」を知っていただきました。
また、親御さんのご経験を伺い
「お子さんに共感してもらえるエピソード」を引き出しました。
不安に対しては、「幽霊の正体見たり。枯れ尾花」作戦と称し、集団心理について種明かしをしたり、分析を励ましたりなどの対応をおすすめしました。
☆気持ちを聞いたなら解決しろよ?って論理
学校に行けない、行きたくない等の言動があったとき、なんでかな?どうしてかな?と反射的に突っ込んで尋ねてしまう親御さんや先生は、いらっしゃいませんか。
いったん言葉を飲み込んでみましょう。ともお伝えしています。
発達障害寄り、特に少しでも自閉のあるお子さんや思考力の高いお子さんは
「何でも話してね、力になるから」
「一緒に頑張ろうね」
などという一般的な言葉にさえ、モヤモヤします。
これを言うなら、絶対に解決してあげなければならないとおばちゃんは思います。
力になる、ってことは、彼らにとっては解決することなのです。薄っぺらい共感を、力と感じていないのです。
一緒に頑張ろうと言うなら教室で授業受けてみろとか感じるわけです。言語化できるかどうかは別として。
モヤモヤが複雑になればなるほど、心の余裕がなくなり
「話しても、解決してくれなきゃ意味がない」
「解決もできないくせに、味方ぶるな」
「味方のふりした敵だ」
という方向に、思考が固まっていきます。
時間費やして、気を遣って、工夫して手間隙かけて優しくしてるのに歪ませるなんて、馬鹿馬鹿しいと思いませんか?!
そんなくらいなら、聞かない方がましです。
また、
親として、大人として、問題点を聞き出したい、知りたい、という欲求があることは、否定すべきではありません。その思いは、改善に寄与しますしね。
しかし
「子どものために、どうして嫌なのか理由を聞く」
ということを絶対視している傾向があるとすれば、話は別です。
子どものためにと言いながら、その実、「聞きたいから聞く」という、親の、無自覚な、一方的な暴力である可能性があります。
聞きたいから聞く、それは剥き出しの私利私欲。その責任を子どもに押し付けることは、おすすめできません。
聞き出した内容についての責任は、親は負ってはあげられないのですが、お子さん本人にも背負いきれません。
「話すことには責任を持つべきだ」
とおっしゃる向きもあるでしょう。
確かに、発言に責任を持つべき、ということに異論を唱える者はほとんどいませんね。でも、それは平時における理想論です。
ごちゃごちゃの感情を処理できていないまま、集団に居続けざるを得ない子は、逃げられない拷問にかけられている心理とさほど変わりません。
拷問にかけられてやむなく、拷問から逃れたい一心で口走ったことの責任を負わせられるほど、お子さんは、成熟しているでしょうか。
いや、無理でしょう。
何かを聞き出そうとすることで、抗いがたい負荷や新たな縛りを、子どもにかけてしまうかもしれないこと。自覚しなくてはいけません。
戦略的に、慎重に、緻密に、なおかつ、あっさり、あっけらかんと行うべき、ものすごく難度の高い介入、それが「聞く」という関わりなのです。
こちらのケースでは、親御さんの頭をピコピコハンマーで連打しつつ(比喩です)
通話セッションを行い、「良い子育て」へのこだわりを緩和して頂きました。
その上で、差し支えなければ、研究所の過去記事いくつかを印刷して、お子さんに読んでもらってみてください、と書いたところ、
不機嫌なまま流し読みして机に放置していたかと思ったら、嘘みたいに元気になってました、と返信がありました。
お母さん、これ面白かった。
私が書いたのかと思った。
と話してくれたそうです。
続きます