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もしかして発達グレー研究所~凸凹ハートの幸せを考えるブログ by QOLT

なじめない、生きにくい。そんな子達の青い鳥ドコー?志村!後ろ後ろ!

それでも担任に頼りますか?5

学校はじめ、世の中は、「いじめ、パワハラは心を壊す!人権侵害!ダメ、絶対!」と刷り込むことで、いじめやパワハラをなくさせようとしていますよね。

その刷り込みが効く子もたくさんいるでしょう。

が、そういう子は、たとえいじめられようが、いじめをしようが、歳を取るに連れてそれなりにバランスを取り、たくましく成長する、とおばちゃんは感じています。

問題は、「いじめは悪」という正論が、心の最も深いところにぐっさりと刺さってしまって化膿するケースです。
この現象、あまり知られていませんよね。今回はそのお話。

「いじめダメ、絶対。」「いじめる側が悪い」の風潮が含む毒

ちょっと変なことを書きますよ。

「いじめはダメ」という教育は、絶対善ではありません!!

いじめしよったらあかんで、ということを考え方のひとつとして知る分には、いいのです。別に毒にも薬にもなりませんから。


でも、一部のいじめられっ子にとっては、
「いじめは悪」
と刷り込まれることこそが、大きなリスクとなります。

負の感情の緩和システムを取り付けないままで、負の感情発生システムといじめ感知センサーだけを搭載させられるようなものだからです。

「いじめ」の定義が「相手が嫌だと思ったらいじめ」等という、いじめ被害者保護、いじめっ子批判を主とする現代の社会通念こそ、実は、いじめ被害者の絶望の元となっている可能性があります。このことを、子どもを含む全人類が知るべきです。


「いじめられた!相手は悪だ!」
「この学校にはいじめがある!いじめを見て見ぬふりする人がいる!悪い学校だ!同級生みんな鬼畜だ!」
等という、消し去り難い負の感情を大量生産してしまうからです。


現代の、いじめは絶対悪という教育を受けた繊細な魂の持ち主は、
担任や、世論(と呼ばれる無責任な放言)から
「いじめられっ子は正義です、いじめられた側は一切悪くありません、いじめられっ子は改善する必要はありません。変わるべきはいじめっ子のみです。いじめっ子は断罪されるべきです。大人も、同級生も、善意の人は全員いじめられっ子の味方です。」
というメッセージを、まっすぐに全力で受け取りながら育ちます。

おばちゃんは、これこそ、デスマーチ序章だと思ってます。

担任の先生の価値観も、世論も、変えられません。
だからこそ、せめて親御さんは、お子さんの百ゼロ思考(この場合は善悪二元論)をほぐしてあげてほしいと切に願います。

「嫌だと思ったらいじめだよ、あなたはなにも悪くない」、という定型文が一人歩きしていますが、この言葉は猛毒です。

当然のように発生する価値観の軋轢を、都度悪意としてとらえろ!!
他責しろ!!自省するな!!
悪いことをされても誰も助けてくれないんだ!!
と、いたいけな子供達の心に叩き込んでいるようなものだからです。

個人差がありますので、自省をやめ、他責に切り換えることによって救われる心も当然あるでしょう。
ただ、たとえ今はぼんやりしていても記憶を抱えたまま将来思考が深くなる子にとって、
「嫌だと思ったらいじめ」
という学校用語を無批判にインストールし、まず他責ありきの思考回路を作ってしまいますと、バランス感覚の乏しいお子さんは、ささやかな幸せから遠ざかっていきます。
猛スピードで。

悪意の感受性が上がってしまう

嫌だと思ったらいじめ、という言葉を真に受けると、悪意の感受性が爆上げします。
幸せを拾いにくくなり、人生の満足度が下がります。

悪意感受性と善意・幸福感受性は、繊細な感受性という意味で同じように育つと思い込みがちですが、
実際ストレス下ではマッチポンプ式に運用している人が多いです。
つまり、 悪意感受性を下げなければ、善意の感受性は高まりません。(もちろん人によりますよ)


「いじめは悪」の概念においては、いじめられていることにいち早く気付いて強者に訴え、強者によって相手側を断罪してもらうことこそ、「嫌だと思った子が取るべき行動」であり、
それに対応することが「良いいじめ対応」「いじめ被害者保護」とされています。

親子は、学校や教育委員会に解決を求めます。
近年はいじめ保険と称した保険まで発売されました。

これ、発達グレーマニアのおばちゃんとしては、手放しで喜べる風潮では決してありません。


いじめっ子は悪いだのいじめられっ子は善だのという二元論に落とし込む世論のお陰でで、断罪はしやすくなっています。
同時に、内心で

あーいじめるっていう低俗なストレス処理方法しか知らないんだな、さぞかし不幸なんだろうな……
と、優しく見下し憐れんで流せば(猿にウンコ投げられたとか虎におしっこかけられたぐらいの受け取り方を初期設定で学んでおけば)レジリエンスにつなげられたと思われる事象も
「深刻な人権侵害」
と受け止めてしまうがために、手放せなくなり、ずっととらわれてしまうのです。

わざわざ二元論にあてはめる理由を考えてみてね

私は、いじめも、いじり・煽りも、多様で多層的だと思っています。

刑法に抵触するような行為が看過されていたり……
穏やかさ優しさにつけこんでエスカレートしていくものであったり……
多と孤が価値観の違いを多層的に受け取ることができない時に起こる軋轢、どちらが一方的に悪いとか、一方的に正しいと断定できない性質のトラブルのことまで、
「いじめだ!悪だ!」と決めつけてしまっていたり……
被害者となればかばってもらえる、という心理が介在していたり……

いじめは、こういった事象の狭間にあります。
言い換えれば、線引きできないスペクトラム上に存在しているものだと考えています。


犯罪と、誤解・軋轢は、いじめスペクトラム上にあるけれども、その境界は、定かではありません。

定かでないというのはこの場合、それぞれの価値観によって境界ははっきりあり、はっきり異なっていて、相互の領域に食い込んでいる、ということです。

その曖昧な境界を、無理矢理に一本の線として決めて、被害者と加害者という二元論に当てはめるのは、何のためだと思われますか?

それは、ジャッジする者の職務上、都合が良いからです。


ジャッジする者は忙しいのです。
担任はクラスのあちこちで常に起きている何十もの価値観の軋轢を調整せねばならず、一件一件のトラブルに対して十分なコストを割くことなど到底できません。
裁判所も然りです。

ところが、被害を感じた子の多くは、親や担任のジャッジを求めます。
親は、担任や教育委員会や裁判所のジャッジを求めます。
【勝訴!!!】【謝罪させた!!!】という一時的な快感を求めます。
また、被害側は、加害者に何らかのペナルティを科す事が担任や教育委員会、裁判所の仕事だ、とも思いがちです。


たとえ担任は裁判長になることを望んでいなくても、ジャッジを迫られます。
善か悪か、被害者か加害者かといった、単純な型に無理矢理あてはめて、次から次へとジャッジしていかなければ、家に帰してもらえないからです。


それでも担任に頼りますか?

子どもから聞いた話

軋轢に苦しみがちなちょっと変わった子どもたち。
道徳の時間には「お前は黙ってろ!」だとか、「…ちょっと何言ってるのか先生わかんないや、みんなはわかる?」「わかりませーん 」「だよな、わかんないハイ次の人ー」と言われてしまいがちな、私の小さな先生たちに聞いてみますと、さまざまな意見が聞かれます。

・「いじめは悪」「相手が嫌だと思ったらいじめ」「いじめを許さない!」と繰り返すわりには、先生や大人たちはいじめを許容しているように見える。むしろ、率先していじめてる気がする…。

・僕らは、あいつに絡まれ続けて、嫌な思いたくさんしてきた。楽しく話しているのにいつも水をさすし、すぐ機嫌が悪くなるし。
このままだとこっちがおかしくなりそうだったから、距離を置こうとした。
それでもストーカーみたいにしつこく付きまとってきた。
そうしたら、無視された~仲間はずれにされた~と先生に泣きついて。
先生からは、相手が嫌だと思ったらいじめなんだよ!!と、なぜか僕らが怒鳴られた。
僕たちはさんざん嫌だと思ってきたよ?でも共存するために、距離を置いただけだよ?僕らはどうすればよかったの?

先生や親も、「僕が嫌だと思うことをしてくる」、だから、いじめっ子。いじめは悪なんだよね??学校も、家も、悪なの?そんな世界で、生きる意味ってあるの?

・いじめはダメ絶対ダメ!嫌だと思ったらいじめ!って言う先生ほど、私が仲間外れにされて辛かったときちっとも助けてくれなかった。相手にも思いがあるから…あなたも悪いところがある…、って説明された。
私は被害者だよ?被害者に非がないって言ってたの誰?話が違いすぎて不信感で一杯。

・いじめは、あってはならないはずなのに、私は嫌な思いをさせられている、いじめられている。誰も終わらせてくれない。私は、やっちゃいけないひどいことをされるくらい、要らない存在なんだ。見て見ぬふりする同級生もみんな「お前なんて要らない」と思ってるんだ



純粋で、自分の価値観における正義か悪かの境目や、言葉に敏感な子どもは、いじめられる以前に、また、加害者として断罪される以前に、ここに例示したような「理不尽さ」を日々感じているようなふしがあります。

彼らの気持ちも尤もですし、先生たちのいい加減さも無理ないのです。どちらが正しいとか間違っているということではないのです。


先生は日常的に、異なる価値観の殴り合いを見てきています。
見飽きています。うんざりしています。

たくさんの経験から
「いじめは悪で、あってはならない!!(だけど、どこにでもあって、無くすことはできなくて、まぁなんつーか仕方がないっちゅーか…いじめっ子もいじめられっ子も成長するし、成長しなくても卒業したりして居なくなるしあとはわからないし)」というように、心理の折り合いを付け終わっていることも多いです。

親御さんはいろいろです。
事実関係はっきりさせて白黒つけてほしい方、いじめは罪として罰せられるべきとする方が、各種調査やTwitterなどで見ている印象としては多いようです。
おばちゃんblog経由のご相談では、おばちゃんのいじめ観に賛同してくださる方ばかりなので、トラブルの緩和がとてもスムーズだと感じます。

いじめ感受性を高めると、ストレス感受性の高い脳になる

不快な扱いを受けた経験全てに「いじめ」という巨大なラベルを貼ってしまうお子さんの脳コンピューターのデスクトップは、いじめフォルダといじめフラグといじめラベルだらけになります。
負の感情や記憶によるメモリ占有率が上がっていきます。
ポジティブな感情フォルダを開きにくくなる状態になります。

こんな脳になってしまうと、サクサク動きません。
どんなにハイスペックでも、デスクトップがこの状態では、
気分よく使いこなすことは難しくなります。


……ね、そろそろ、やめてみませんか?嫌だと思ったらいじめ、いじめっ子は悪、いじめられっ子は善って言説。
善悪二元論から離れて、幸せを模索しませんか?


「いじめは絶対悪」が及ぼす影響

いじめは絶対ダメ、いじめるほうが絶対的に悪い、と刷り込まれたせいで、被害を受けやすい子から見える世界は、あり得ないほど醜い、地獄絵図になります。
「絶対悪を野放しにする世の中」に対し、絶対的な不信感を抱きます。

・弁護士付けて正しさを証明しようと親に言われた時はうれしかったけど、結局得られたのはわずかな示談金のみ。膨大な労力をかけて、かえって嫌な記憶が強く残ってしまった。

・子供のトラブルをおおごとにする家の子、と噂され、腫れもの扱いされるようになって、本来経験するべき衝突や葛藤から学ぶ機会を逸した。

このことを、自他の境界が曖昧なお子さん、変わったお子さん、おとなしいお子さん、正義感が強すぎるお子さん、社会性凹のお子さん、発達障害傾向のお子さんと、彼らを守る立場の大人は胆に銘じておいてほしいと思います。


また、非のない者と、非のない者を不当に低く扱って溜飲を下げる者、つまりいわゆるいじめられっ子といじめっ子は、そのときたまたま力関係的に上位下位だったためにいじめる側いじめられる側に分かれただけ、というケースも散見されます。


批判承知で申し上げます。
いじめかどうかとか、誰がいじめたかとか、基本的には大した情報ではないと思ってみてはいかがですか。平時から。
いえ、幼児期から。

いじめっ子もいじめられっ子も、問題の渦中にあるときはいっぱいいっぱいです。
メモリに余力ないです。
視野は狭く、思考は固まります。

ふつーの担任が、職務上の制限や時間や周囲を気にしながら、無理矢理子どもの視野を広げようとしても、大した効果はありません。神レベルなら別ですがね。

でも、親ならば、スキンシップで肩を抱き寄せるとか、ハグするとか、ちょっと奮発したおやつを出すとか、新しいスマホ買い与えるとか、旅行に連れ出すなどの裏技を使えますよね?

それでも担任に頼りますか?


おばちゃんこの話始めると長いんです…もうちょっとでやめます!もっと聞きたかったら連絡ください

いじめ予防を考えるなら、「いじめは悪!」をスタート地点にしないでほしいと思います。

「相手が嫌だと思ったらいじめ」だとするなら、これはいじめ、これはいじめじゃない、などというジャッジも意味をなさないほど、この世はいじめだらけになります。

繊細ないじめ被害者が、生きていたくない、死にたい、と思ってしまうのは
「いじめは絶対悪」なのに「無くならない」、この救いのなさに絶望するためです。


私には、いじめ加害の無くし方はわかりません。
ハームリダクションはできます。
いじめ被害を減らすことも、いじめ加害をやめさせることも、できるんです。
いじめ被害は予防やリカバリーができますし、
いじめ加害者は、いじめ行為以上の刺激と承認を与えれば、いじめを止めます。


双方共に、ジャストミートな心の繋がりがほしい子が多いですから、百ゼロ思考の執着をほどいて、「まし」な繋がりに誘導するだけです。


でも、私のようなおばちゃんたちが関わって、局所的にいじめを減らせばいいかというと、それも絶対善ではないと思います。

ひどい経験も、保護者がうまく立ち回れば、いい経験に変えられます。
ひどい経験をいい経験とすることができたとき、同時に、しなやかな精神と、深い優しさが得られます。
これは、一生使えるハッピー製造装置です。

親に神通力がある間に、大好きな親のヨシヨシで立ち直れるうちに、さんざんひどい目に遭いながら身につけるのが、最も古典的かつ現実的なレジリエンス獲得方法だと思います。
親子が恋人同士となり得るタイミングを逃すと
「パートナーとの出会い」などという名の運頼みになりがちです。


繰り返しとなりますが、
発達障害風味のお子さんを持つ親御さんに、私は「ふつーに良いとされる」育て方を無批判にとりいれることはおすすめしません。

どうせ、ふつーの感覚は学校生活で繰り返し刷り込まれ極化しますから、
バランスを意識させた方がいいと考えています。

もちろん異論があるのは承知してます。
でもバランスをとれるように導いてください、ここはおばちゃん、譲りません。


いじめは、価値観のせめぎ合い、承認の奪い合いの果てに起きます。

いじめをするのも、いじめられるのも、傍観者になるのも、断罪する側になるのも、承認欲求がもたらす結果です。
いじめゼロの社会が実現するとすれば、それは人類が承認欲求を手放すときではと思っています。



正義を振りかざせるほど立派な人間ではないので、
いじめダメ絶対!と声を上げることはしません。
ただ笑顔を増やすことしかできません。

価値観は、塗り替えていくオセロ式ではなく、集めて楽しむコレクションカードに近いものだという感覚、負荷調整力、ストレスの処理方法や客観視の力、何手か先を想定するという力、避けるか持ちこたえるか戦うか…リスクとニュートラルとベネフィットの曖昧な境界線を見極める力、
こういったバランス力を身に付けられるように、関わるだけです。

長文お読みくださりどうもありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

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