親は承認サーバー
多くの子どもにとって、親は、
「高付加価値の承認」をもたらす者です。
特に「変わった子」は共感者、理解者を得にくいので、思春期前まで、承認をもたらす貴重な存在=親となりやすいです。
自閉が強いなど一部を除けば
親は10年以上、子供にとって唯一にして最大の承認サーバーになる…
重たいですね。
キツイです。
その重い責任と子の思考を導くことができるという特権は表裏一体なので
心を砕いて頑張っていらっしゃるところだと思います
ここでちょっと水を差します
子どもが思春期を迎えるとき、親の承認、とりわけ親の愛の価値は大暴落します
それまで愛に満たされていた子どもの一部は
一気に承認を失った状態となり、承認に飢えます
これは、生理的な現象で
理想としては思春期までには友達と相互承認システムを組み立てて、親の承認を受け取れなくなっても友達と認め合うことで承認のバックアップを行っています
同級生などと承認を与え合う関係を構築できていない子の場合、一気に破滅的な承認不足に陥るのです
さて、どうしましょう?
承認と言えば愛……
よく、「自己肯定感を与えるためには、親の愛が大切♥️」と言いますよね。
あのコトバに救われた親子もたくさんいますけど、被害者も多いです。
「うちの子に自己肯定感がないのは親である私のせいだ」
「私の愛情の伝え方のせいだ」と思い込んで苦しくなっちゃう真面目な親御さん、ご相談くださることがよくあります。
自己肯定には、ほめることと愛すること!(というか自己効力を支えるのは愛!)
あちこちでしきりに言われて、信じきっていらっしゃる。
気を付けてください!
愛は、論理優先主義においては、感情優先主義のようなディープでウエットな観念としては扱わなくていいと思います。
所詮、承認の手段のひとつに過ぎません。
愛はなんだかとても美しく万能で永久不滅なような言われようをしていますが……、
身も蓋もない言い方しちゃうと、手段・ツールのひとつに過ぎないんです。
与えたり、受け取ったりすることで承認を満たせる手段のひとつ。
そう見なしたほうがいい場合もあるんです。
そして、信頼と同様、愛もまた、諸刃のエクスカリバーです。
信頼関係が憎しみに繋がることがあるように、愛も、危なっかしいんです。
特に、親が子に向けるとき。
愛は、不安と共にあるとき、かなりの毒を発生させます。
かわいさ余って憎さ百倍、ってなりかねないです。
敬意
愛や信頼よりは、合理的でしょう。
デメリット少ないし、持続可能性高いです。双方向性がなくても悲壮感がないですしね。
思春期に親の愛情表現を拒むのは生理現象ですが、他者からの敬意は やぶさかではない、そんなお子さんならば
わかり合えないものへの敬意を親が持つことで、
承認仲間がいなくても、思春期、急激な承認不足へと陥らせずに済みます。
ではなぜ親の愛が声高に叫ばれるのか
そもそも社会通念が、「行為を認めるもの」ではなく「子の存在を無条件に認める」、って規定してるんですよ、親の愛ってものを。
要するに、親に愛される=存在を無条件に認められること、に等しいと、規定されているようなもの。
親の愛とは無条件で存在を認めることであり、そのポジティブな結果を自己肯定感と呼んでいる、みたいな話なのです。
自己肯定感があるのは親の愛のお陰、というのは、どうやら違うのではないかと。
自己肯定感を育んだ要素を、親の愛と定義した、っていうほうが現実に近くないかな?と思うんです、わかりにくいしひねくれてますね、すみません。
自己肯定感を育むのに愛は必要ない、とは言わないけれど……
なんていうか、愛至上主義と感情至上主義は似ていて。
論理至上主義のひとは、この愛という概念を厳密に拾おうとするあまり、とりまくいい加減さに、失望したり、うんざりしたり、しやすいのです。
また、思春期や更年期、月経前などのホルモンバランスの激動期には、特に、愛や気配り等など曖昧なものに過剰な期待をしがちです。
「愛」の曖昧さにモヤモヤしがちな子達に無駄なく承認を伝えるには、
一般的に言われるようなな親の愛ではなく、
「今、役に立つかどうか」
「脳がメリットを感じられるか」
という要素が重要だと私は思ってます。
特に子どもの頃は、「将来」なんて曖昧なもののためになにかしてもらっても嬉しくないのです。将来の年収1500万より、今の興味!みたいなね。
なので、今の興味をうまく使いながら、将来につながる雑務をこなさせます。
この取り組みは、嫌なことを嫌な方法で誘導するよりも、デメリットが現れにく
鉄道の絵を書くのが好きで漢字ドリルのなぞりが苦手なら、鉄道の絵や駅名等をなぞるとかね。
結果を出せない愛は毒になる
子どもが、イキイキできている期間は、
親の愛が機能しているという評価を受けることができるでしょう。
「自己肯定感のために愛してあげて!」「愛されることで、生きていていいんだ、という自己肯定感が育ちます!」と美しくシンプル化して言うけれど、
残念ながら、リアルは残酷です。
愛を注ぐ思いや、過程ではなく、結果を問われているんですよ……悲しいことに、結果なの、世の中は結果を問うの。
重たいですけどね。
では、親の愛に結果を伴わせるには……自己肯定感を身に付けさせるには、どうしたらよいのでしょう?となりますが
……お子さんそれぞれです、いや、逃げてるわけではなく(ちょっと逃げてるけど)、ほんとにそれぞれ。
たとえば、料理や勉強サポートで愛情伝わって、それが自己肯定につながる子もいれば、重荷に感じる子もいます。
そもそも、料理や勉強サポートでは愛情が伝わらないって子もいますね。
ツボは様々。
前回までのエントリーを踏まえて、各自で想定して試行錯誤してみてくださいね。
おばちゃんデートやおばちゃん電話で、お手伝いできるかもしれません。
さて、タイトルにもある 親の承認の価値ですが。
今どんなに仲良しでも、思春期までに大暴落するという覚悟をしておいてくださいね。
※凸凹っ子は思春期が出ないことや、20歳前後にずれこむこともよくあります
精神年齢が小学生な子から見た親は、全知全能であり、生殺与奪の権を掌握する完全なる飼育者であり、強く、大きく、逃げられない、そんな恐ろしい、重たい存在です。
それが、客観視や体の成長によって、自力でおしのけられるようになるわけです。
また、教育者、友人、恋人など、保護者が子どものため八面六臂で担ってきた役割がありますよね。
これを、他者が務め始めます。
一方、年を取り、輝きも色褪せた親による承認。価値が下がるのも、無理ありません。
子が、親の価値をそこそこ高く見積もってくれていると、親の承認により、承認欲求が満足しやすいです。
AがBの価値を高く見積もり、BがAの価値を高く見積もると、AB双方に対する承認力が爆上げします。
承認には、このような相互に買い支え合う持ち株みたいな面がありまして。
親は、子を愛するよりリスペクト、具体的には「生きててくれてありがとう」。子も、親を愛するよりリスペクト「生きててくれてありがとう」。
こうして双方の価値を買い支え合います。
※一見共依存のようですが、外とつながる力をつけるために、一時的にメンタルを整える避難所として、共依存のような作用を利用するということです。
共依存でないと守れない命もあり、共依存そのものが悪いわけではないです。
ただ、外と繋げられるはずのときに繋がらせてあげないのはNG。そこが、ヤバい共依存と、必要な共依存の境界線ですね。
なぜ愛ではダメなのか
なんで好きになったんだっけ??的な相手から注がれる大きな愛ほど、気持ち悪いものはないですよね。
思春期の子の、異性の親への感情が、想像できると思います。
このように、親の承認の価値は、絶対的なものでも普遍的なものでもありません。
生物として「親」の承認の価値は、子どもの客観性の成長、自立、親の老化などによって低下していきます。
ですから、親の地位にあぐらをかいたり、親の愛にこだわってすがるのはおすすめしません。
親の愛は、神の愛ではありません。
くれぐれも、万能になろうとしないでください。
なれないので。
お子さん、混乱しますので。
親が目指すとしたら、「当たるも八卦当たらぬも八卦、我が子にとってそこそこ悪くない相談先、心配事の一時預かり所」に。
そして、お子さんとともに
サバイバル度合いに応じて、
緊急避難スキル、SOSスキル、ガス抜きスキル、認知行動スキル、の選択肢を身に付けてください。
提案がほしいSOSなのか、聞いてほしいだけのSOSか、はっきりさせる練習を、幼児期、学童期のうちからしておくとよいですよ。
いつも以上に乱文でごめんなさい、眠い……
昨日も今日もアドセンス1円……
先日、当ブログよりお買い物してくださったかたありがとうございます!
おばちゃんの自己肯定感が上がります!