典型社会への適応性(いわゆる社会性、コミュニケーション力)凹のお子さんの言動は、集団に醜い連帯感を与えるツールとして最適なのです。
これが、悲しいけれども現実です。
いじめはダメ、叱責詰問罵倒はOKという謎文化
いじめは絶対にだめ。でも、悪いことをした子は罰を受けて当たり前。
このような空気が学校にはあるのです。
いじめはダメ、なんて所詮は綺麗事です。
いじめの定義がそもそも、主観に委ねられています。
群れのリーダーである担任の主観によって、ダメないじめだったり、アリな処罰だったりするのです。
子どもたちは、学校で、執拗なほどに「いじめはダメ!絶対!なくそう!!」と刷り込まれます。
担任は、よく授業を潰して(実際は道徳の時間としてカウントしていることが多いと思いますが)、いじめがいかにいけないかを熱弁します。
その口で、ですよ。
「授業に遅れたらみんなに迷惑かかると思う人ー?だよね、みんなそう思うよねー!」
「○君が悪いと思う人ー? だよねー! ○くんはみんなに謝るべきだと思う人ー?だよねー!」
なんてやってしまうのです。
しかも、それが誤解だったとあとでわかっても、どこ吹く風、あるいは逆ギレ。
または、その公開処刑の次の時間、
こともあろうに担任が授業に遅れるが謝りもせず、なんてケースも…
(どちらも実話)。
もしかして発達障害、なお子さんに限らず、繊細な子、生真面目な子は
「これはいじめではないの…?」
「先生、謝るべきじゃないの?」
「果たしていいことなの…?」と混乱します。
あたりを見回しても、自分同様モヤっている子は見つからず、
先生に同調して、級友の失敗を嘲笑しています。
吐き出せないモヤモヤを抱えたまま、
「ここでは失敗なんて絶対にできない」と思い込みます。
そして、孤独と緊張から、その場にいるだけでエネルギーを失っていきます。
いじめ被害者が減らないからくり
文科省の行ういじめ防止というのは、加害者予備軍を減らそうという取り組みです。
被害者や被害者予備軍の教育は、完全スルー、鬼スルーです。
「いじめられっ子側にも多少は言い分が…なにか虎の尾を踏むような言動をしちゃったのでは?」
「水に流して、出直しては」
「悪口はいけませんね。でも、受け取り方も過剰反応ですよ」
なんて口が避けても言えなくなってます。
(衝動性の高い人は、言っちゃって、炎上してる)
ひたすらに加害者側を減らす目的のアナウンスがなされ、加害者側の人権意識を高めようという意図で、言葉が選ばれています。
これがものすごくまずい。バランスがおかしい。私は思います。
加害者側が、綺麗事を「うんわかった!」と、聞くわけなくて。
加害者的な資質を持たない子どもたちほど、「相手が嫌だと思ったらいじめ」と刷り込まれてしまっている気がします。
加害者や加害者予備軍の意識を高めようとして、むしろ、言ってみれば逆の属性を持つ子達の被害意識を高めてしまっています。
その子達は、小さい頃から、聡明な思慮深いお母さんによって誉めて育てられていて、叱られたことをきっかけに冷静に立て直し、克服するというサバイバル経験が乏しい傾向にあります。
このため、注意をされたことを、「嫌だな→これはいじめである」ととらえてしまうことがあるのです。
加えて、刷り込まれている人権意識が悪さをします。
やっちゃいけないことされてる!人権侵害だ!不当だ!などと思いを強めること自体が、実は強い精神的ストレスになり、そのストレスがまた認知の歪みを強めます。強すぎる認知はさらにストレスを生みますから、以下略、
うまくスパイラルを断ち切らないと
「悲劇のいじめ被害者」まっしぐらです。
偏りは偏りを生み、大きく傾き、親も担任もなにもできなくなります。
拗れ、僻み、どんどん社会から離れていきます。
「いじめによる不登校」「担任が原因の不登校」のうちの何割かはわかりませんが、
・まずいことをしたから叱って改善を促したまで
・他の子たちにも同様に行っている
・本人由来の思考(認知の偏りが偏りを生むメカニズム)によって深刻化した可能性がある
・他者の責任としてしまうと、本人が改善機会を失う
といった「ポリティカルコレクトネス上不都合な真実」があることに、現場の賢明な先生方も、傍観者である子どもたちも、気付いています。
本当に責任があり親身であれば、敢えて悪者になってでも指摘して、痛みを伴う改善をもたらすのが最適解だとしても、
「いじめ加害者を罰するより先に、あなた自身の認知の歪みをどうにかしましょう」なんて言おうものなら、大変なことになります。相手が嫌だと思ったらいじめですから、瞬時にいじめ加害者のリストに名を連ねられることになります。
(蛇足ですが、アスペルガー傾向ありの子はしばしばこのような親身すぎる指摘をして嫌われてしまうのです)
「いじめ被害者のうち、
何割かは、ただのわがまますぎて人をイラつかせている。
何割かは、のんきすぎて人をイラつかせている。
何割かは、素敵すぎて人をイラつかせている。
何割かは、正義感が強すぎて人をイラつかせている。」
「自助努力をすれば、いじめに遭うことはほぼほぼなくなる」
「リスク回避の余地が全くなかったいじめられっ子は、発達障害圏内における偉人発生率と同じぐらいでは?」
こんなこと公的な立場(学校関係者、心理で生計立ててる人)は絶対言えません。
職は危うくなるわ、その自治体の税金が危険にさらされるわで、どなたもおっしゃいませんけれども。
(血税が賠償金として、人権派=左翼系弁護士に打出の小槌扱いされるの、納税者も嫌ですよね)
でも、「我が子はいじめ被害者でございー♪」と言いたい親御さん以外は、肝に銘じておいて頂きたいなと思います。
いじめは家庭教育で予防するのがベターです。
遭ってからなくそうとすると、かかるコストが桁違いです。
また、生殺与奪と強い承認の権を握る親が、育てにくいと感じる子は、ほとんどの場合、他人にとっても扱いが難しいと思った方がよいです。
文科省は定型しか見ていない。だがそれがいい。親の本気が育つから。
文部科学省や教育委員会、学校にもそれぞれの立場や理念、美学があります。
それらは絶対善でも、絶対悪でもありません。
「使いよう」です。
個人的には、
「加害者予備軍減らし」にこだわりすぎてバランスとは遠いなとは思うものの、被害者遺族の会への配慮など、ある方向から見れば正当性があるのだと思いますので、変えるべきとは思いません。
ただ、いじめ撲滅キャンペーンから「いじめを、するまい!」というメッセージを受け取る代わりに、
「嫌だと思ったら、いじめ!」という情報にフォーカスしまうタイプのお子さんをお持ちの親御さんには、子育てを公任せ、集団任せにするのは、期待値が低すぎるギャンブルだと認識していただきたいと思います。
「いじめも、パワハラも、集団リンチも、多様な関わり方の中の一つ。」
「自分は、家庭の美学に反するから、しない。」
「そうすることでしか自分を保てない人がいる。」
「でも、無くせない。仕方ない。いじめは交通事故みたいなもの。ゼロにはできないが、工夫でリスクを減らせる」
「被写界深度(ピント)を変えれば、ひとりじゃないことが見えてくる。」
「ひっそり生きているので目立たなくて、ひとりぼっちに思いがちだけど。各学校、あるいは各クラス各部活に、いじられてる子がいる。」
「いじられないためには、あるいは、いじられることを美味しいネタとして料理できるようになるにはどうすればよいかな」
等々、「負の感情を緩和するシステム」のプログラムを、その子の思考回路を尊重しながら、緻密に組んでいく必要があります。
オーダーメイドです。
集団内でできることでは到底ありません。
サリバン先生並みに優秀な住みこみ家庭教師を雇用できるような、特殊なご家庭以外は、保護者のゆるい積み上げが必要不可欠です。
逆に言えば、衣食住と承認を与える立場である保護者によるゆるーい積み上げにより、優秀な住み込み家庭教師よりも高い効果が見込めるということです。
生きてるだけで頑張ってます。
肩の力をいったん抜いて。
手段と目的がごっちゃになっていないか確認しましょう。
担任に協力してもらうことも、学校に行かせることも、子どもの育成のための手段であって、目的ではないと思います。
おばちゃんはね。
手段が手段として機能しないならば、別の手段を考えましょう。
スクールカウンセラー?
ホームランもあり得ますので、アクセスできるならば試してみてもいいでしょう、でも打率で言うと高くはないです。
傾聴系、コンサル系、いずれも向き不向きがあるので、2-3件試してみると良いかなと思います。
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